現在お使いのブラウザのバージョンでは、本サービスの機能をご利用いただけない可能性があります
バージョンアップを試すか、Google ChromeやMozilla Firefoxなどの最新ブラウザをお試しください
思想・良心の自由
謝罪広告強制事件 最大判昭和31年7月4日
概要
①民法723条にいわゆる「他人の名誉を毀損した者に対して被害者の名誉を回復するに適当な処分」として謝罪広告を新聞紙等に掲載すべきことを加害者に命ずる場合において、謝罪広告の内容が単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明するに止まる程度のものであるときは、これを代替作為として旧民事訴訟法733条の手続によって代替執行をなし得る。
②単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明するに止まる程度の内容の謝罪広告を新聞紙に掲載すべきことを命ずる判決は、加害者に屈辱的若くは苦役的労苦を科し、又は加害者の有する倫理的な意思、良心の自由を侵害することを要求するものとは解せられない。
②単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明するに止まる程度の内容の謝罪広告を新聞紙に掲載すべきことを命ずる判決は、加害者に屈辱的若くは苦役的労苦を科し、又は加害者の有する倫理的な意思、良心の自由を侵害することを要求するものとは解せられない。
判例
事案:衆議院議員選挙における政見放送の際に虚偽の放送を行って名誉を傷つけたと主張し、謝罪広告の掲載を求めて提訴した事案において、裁判所が民法723条に基づく「他人の名誉を毀損した者に対」する「被害者の…名誉を回復するのに適当な処分」として謝罪広告を新聞紙等に掲載すべきことを加害者に命じることが、内心に反する行為の強制という意味で「思想及び良心の自由」に対する直接的介入として憲法19条に違反しないかが問題となった。
判旨「民法723条にいわゆる「他人の名誉を毀損した者に対して被害者の名誉を回復するに適当な処分」として謝罪広告を新聞紙等に掲載すべきことを加害者に命ずることは、従来学説判例の肯認するところであり、また謝罪広告を新聞紙等に掲載することは我国民生活の実際においても行われているのである。尤も謝罪広告を命ずる判決にもその内容上、これを新聞紙に掲載することが謝罪者の意思決定に委ねるを相当とし、これを命ずる場合の執行も債務者の意思のみに係る不代替作為として民訴734条に基き間接強制によるを相当とするものもあるべく、時にはこれを強制することが債務者の人格を無視し著しくその名誉を毀損し意思決定の自由乃至良心の自由を不当に制限することとなり、いわゆる強制執行に適さない場合に該当することもありうるであろうけれど、単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明するに止まる程度のものにあつては、これが強制執行も代替作為として民訴733条の手続によることを得るものといわなければならない。そして原判決の是認した被上告人の本訴請求は、上告人が判示日時に判示放送、又は新聞紙において公表した客観的事実につき上告人名義を以て被上告人に宛て「右放送及記事は真相に相違しており、貴下の名誉を傷け御迷惑をおかけいたしました。ここに陳謝の意を表します」なる内容のもので、結局上告人をして右公表事実が虚偽且つ不当であつたことを広報機関を通じて発表すべきことを求めるに帰する。されば少くともこの種の謝罪広告を新聞紙に掲載すべきことを命ずる原判決は、上告人に屈辱的若くは苦役的労苦を科し、又は上告人の有する倫理的な意思、良心の自由を侵害することを要求するものとは解せられないし、また民法723条にいわゆる適当な処分というべきであるから所論は採用できない。」
判旨「民法723条にいわゆる「他人の名誉を毀損した者に対して被害者の名誉を回復するに適当な処分」として謝罪広告を新聞紙等に掲載すべきことを加害者に命ずることは、従来学説判例の肯認するところであり、また謝罪広告を新聞紙等に掲載することは我国民生活の実際においても行われているのである。尤も謝罪広告を命ずる判決にもその内容上、これを新聞紙に掲載することが謝罪者の意思決定に委ねるを相当とし、これを命ずる場合の執行も債務者の意思のみに係る不代替作為として民訴734条に基き間接強制によるを相当とするものもあるべく、時にはこれを強制することが債務者の人格を無視し著しくその名誉を毀損し意思決定の自由乃至良心の自由を不当に制限することとなり、いわゆる強制執行に適さない場合に該当することもありうるであろうけれど、単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明するに止まる程度のものにあつては、これが強制執行も代替作為として民訴733条の手続によることを得るものといわなければならない。そして原判決の是認した被上告人の本訴請求は、上告人が判示日時に判示放送、又は新聞紙において公表した客観的事実につき上告人名義を以て被上告人に宛て「右放送及記事は真相に相違しており、貴下の名誉を傷け御迷惑をおかけいたしました。ここに陳謝の意を表します」なる内容のもので、結局上告人をして右公表事実が虚偽且つ不当であつたことを広報機関を通じて発表すべきことを求めるに帰する。されば少くともこの種の謝罪広告を新聞紙に掲載すべきことを命ずる原判決は、上告人に屈辱的若くは苦役的労苦を科し、又は上告人の有する倫理的な意思、良心の自由を侵害することを要求するものとは解せられないし、また民法723条にいわゆる適当な処分というべきであるから所論は採用できない。」
補足意見:「上告論旨は、要するに、上告人が「現在でも演説の内容は真実であり上告人の言論は国民の幸福の為に為されたものと確信を持つている」から、謝罪文を新聞紙に掲載せしめることは上告人の良心の自由の侵害として憲法一九条の規定またはその趣旨に違反するものというにある。ところで多数意見は、憲法19条にいわゆる良心は何を意味するかについて立ち入るところがない。それはただ、謝罪広告を命ずる判決にもその内容から見て種々なものがあり、その中には強制が債務者の人格を無視し著しくその名誉を毀損し意思決定の自由乃至良心の自由を不当に制限する強制執行に適しないものもあるが、本件の原判決の内容のものなら代替行為として民訴733条の手続によることを得るものと認め、上告人の有する倫論的な意思、良心の自由を侵害することを要求するものと解せられないものとしているにとどまる。
私の見解ではそこに若干の論理の飛躍があるように思われる。
この問題については、判決の内容に関し強制執行が債務者の意思のみに係る不代替行為として間接強制によるを相当とするかまたは代替行為として処置できるものであるかというようなことは、本件の判決の内容が憲法一九条の良心の自由の規定に違反するか否かを決定するために重要ではない。かりに本件の場合に名誉回復処分が間接強制の方法によるものであつたにしてもしかりとする。謝罪広告が間接にしろ強制される以上は、謝罪広告を命ずること自体が違憲かどうかの問題が起ることにかわりがないのである。さらに遡つて考えれば、判決というものが国家の命令としてそれを受ける者において遵守しなければならない以上は、強制執行の問題と別個に考えても同じ問題が存在するのである。
私は憲法19条の「良心」というのは、謝罪の意思表示の基礎としての道徳的の反省とか誠実さというものを含まないと解する。又それは例えばカントの道徳哲学における「良心」という概念とは同一ではない。同条の良心に該当するゲウイツセン(Gewissen)コンシアンス(Conscience)等の外国語は、憲法の自由の保障との関係においては、沿革的には宗教上の信仰と同意義に用いられてきた。しかし今日においてはこれは宗教上の信仰に限らずひろく世界観や主義や思想や主張をもつことにも推及されていると見なければならない。憲法の規定する思想、良心、信教および学問の自由は大体において重複し合つている。
要するに国家としては宗教や上述のこれと同じように取り扱うべきものについて、禁止、処罰、不利益取扱等による強制、特権、庇護を与えることによる偏頗な所遇というようなことは、各人が良心に従つて自由に、ある信仰、思想等をもつことに支障を招来するから、憲法19条に違反するし、ある場合には憲法14条1項の平等の原則にも違反することとなる。憲法19条がかような趣旨に出たものであることは、これに該当する諸外国憲法の条文を見れば明瞭である。
憲法19条が思想と良心とをならべて掲げているのは、一は保障の対照の客観的内容的方面、他はその主観的形式的方面に着眼したものと認められないことはない。
ところが本件において問題となつている謝罪広告はそんな場合ではない。もちろん国家が判決によつて当事者に対し謝罪という倫理的意味をもつ処置を要求する以上は、国家は命ぜられた当事者がこれを道徳的反省を以てすることを排斥しないのみか、これを望ましいことと考えるのである。これは法と道徳との調和の見地からして当然しかるべきである。しかし現実の場合においてはかような調和が必ずしも存在するものではなく、命じられた者がいやいやながら命令に従う場合が多い。もしかような場合に良心の自由が害されたというならば、確信犯人の処罰もできなくなるし、本来道徳に由来するすべての義務(例えば扶養の義務)はもちろんのこと、他のあらゆる債務の履行も強制できなくなる。又極端な場合には、表見主義の原則に従い法が当事者の欲したところと異る法的効果を意思表示に附した場合も、良心の自由に反し憲法違反だと結論しなければならなくなる。さらに一般に法秩序を否定する者に対し法を強制すること自体がその者の良心の自由を侵害するといわざるを得なくなる。
謝罪広告においては、法はもちろんそれに道徳性(Moralita¨t)が伴うことを求めるが、しかし道徳と異る法の性質から合法性(Legalita¨t)即ち行為が内心の状態を離れて外部的に法の命ずるところに適合することを以て一応満足するのである。内心に立ちいたつてまで要求することは法の力を以てするも不可能である。この意味での良心の侵害はあり得ない。これと同じことは国会法や地方自治法が懲罰の一種として「公開議場における陳謝」を認めていること(国会法122条2号、地方自治法13一5条1項1号)についてもいい得られる。
謝罪する意思が伴わない謝罪広告といえども、法の世界においては被害者にとつて意味がある。というのは名誉は対社会的の観念であり、そうしてかような謝罪広告は被害者の名誉回復のために有効な方法と常識上認められるからである。この意味で単なる取消と陳謝との間には区別がない。もし上告理由に主張するように良心を解するときには、自己の所為について確信をもつているから、その取消をさせられることも良心の自由の侵害になるのである。
附言するが謝罪の方法が加害者に屈辱的、奴隷的な義務を課するような不適当な場合には、これは個人の尊重に関する憲法13条違反の問題として考えられるべきであり、良心の自由に関する憲法一九条とは関係がないのである。
要するに本件は憲法19条とは無関係であり、この理由からしてこの点の上告理由は排斥すべきである。憲法を解釈するにあたつては、大所高所からして制度や法条の精神の存するところを把握し、字句や概念の意味もこの精神からして判断しなければならない。私法その他特殊の法域の概念や理論を憲法に推及して、大局から判断をすることを忘れてはならないのである。」(田中耕太郎裁判官の補足意見)
私の見解ではそこに若干の論理の飛躍があるように思われる。
この問題については、判決の内容に関し強制執行が債務者の意思のみに係る不代替行為として間接強制によるを相当とするかまたは代替行為として処置できるものであるかというようなことは、本件の判決の内容が憲法一九条の良心の自由の規定に違反するか否かを決定するために重要ではない。かりに本件の場合に名誉回復処分が間接強制の方法によるものであつたにしてもしかりとする。謝罪広告が間接にしろ強制される以上は、謝罪広告を命ずること自体が違憲かどうかの問題が起ることにかわりがないのである。さらに遡つて考えれば、判決というものが国家の命令としてそれを受ける者において遵守しなければならない以上は、強制執行の問題と別個に考えても同じ問題が存在するのである。
私は憲法19条の「良心」というのは、謝罪の意思表示の基礎としての道徳的の反省とか誠実さというものを含まないと解する。又それは例えばカントの道徳哲学における「良心」という概念とは同一ではない。同条の良心に該当するゲウイツセン(Gewissen)コンシアンス(Conscience)等の外国語は、憲法の自由の保障との関係においては、沿革的には宗教上の信仰と同意義に用いられてきた。しかし今日においてはこれは宗教上の信仰に限らずひろく世界観や主義や思想や主張をもつことにも推及されていると見なければならない。憲法の規定する思想、良心、信教および学問の自由は大体において重複し合つている。
要するに国家としては宗教や上述のこれと同じように取り扱うべきものについて、禁止、処罰、不利益取扱等による強制、特権、庇護を与えることによる偏頗な所遇というようなことは、各人が良心に従つて自由に、ある信仰、思想等をもつことに支障を招来するから、憲法19条に違反するし、ある場合には憲法14条1項の平等の原則にも違反することとなる。憲法19条がかような趣旨に出たものであることは、これに該当する諸外国憲法の条文を見れば明瞭である。
憲法19条が思想と良心とをならべて掲げているのは、一は保障の対照の客観的内容的方面、他はその主観的形式的方面に着眼したものと認められないことはない。
ところが本件において問題となつている謝罪広告はそんな場合ではない。もちろん国家が判決によつて当事者に対し謝罪という倫理的意味をもつ処置を要求する以上は、国家は命ぜられた当事者がこれを道徳的反省を以てすることを排斥しないのみか、これを望ましいことと考えるのである。これは法と道徳との調和の見地からして当然しかるべきである。しかし現実の場合においてはかような調和が必ずしも存在するものではなく、命じられた者がいやいやながら命令に従う場合が多い。もしかような場合に良心の自由が害されたというならば、確信犯人の処罰もできなくなるし、本来道徳に由来するすべての義務(例えば扶養の義務)はもちろんのこと、他のあらゆる債務の履行も強制できなくなる。又極端な場合には、表見主義の原則に従い法が当事者の欲したところと異る法的効果を意思表示に附した場合も、良心の自由に反し憲法違反だと結論しなければならなくなる。さらに一般に法秩序を否定する者に対し法を強制すること自体がその者の良心の自由を侵害するといわざるを得なくなる。
謝罪広告においては、法はもちろんそれに道徳性(Moralita¨t)が伴うことを求めるが、しかし道徳と異る法の性質から合法性(Legalita¨t)即ち行為が内心の状態を離れて外部的に法の命ずるところに適合することを以て一応満足するのである。内心に立ちいたつてまで要求することは法の力を以てするも不可能である。この意味での良心の侵害はあり得ない。これと同じことは国会法や地方自治法が懲罰の一種として「公開議場における陳謝」を認めていること(国会法122条2号、地方自治法13一5条1項1号)についてもいい得られる。
謝罪する意思が伴わない謝罪広告といえども、法の世界においては被害者にとつて意味がある。というのは名誉は対社会的の観念であり、そうしてかような謝罪広告は被害者の名誉回復のために有効な方法と常識上認められるからである。この意味で単なる取消と陳謝との間には区別がない。もし上告理由に主張するように良心を解するときには、自己の所為について確信をもつているから、その取消をさせられることも良心の自由の侵害になるのである。
附言するが謝罪の方法が加害者に屈辱的、奴隷的な義務を課するような不適当な場合には、これは個人の尊重に関する憲法13条違反の問題として考えられるべきであり、良心の自由に関する憲法一九条とは関係がないのである。
要するに本件は憲法19条とは無関係であり、この理由からしてこの点の上告理由は排斥すべきである。憲法を解釈するにあたつては、大所高所からして制度や法条の精神の存するところを把握し、字句や概念の意味もこの精神からして判断しなければならない。私法その他特殊の法域の概念や理論を憲法に推及して、大局から判断をすることを忘れてはならないのである。」(田中耕太郎裁判官の補足意見)
過去問・解説
(H18 司法 第11問 ウ)
最高裁判所の判例によれば、「単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明するに止まる程度」の謝罪広告であれば、これを新聞紙に掲載すべきことを命ずる判決は、被告に屈辱的若しくは苦役的労苦を科し、又は被告の有する倫理的な意思、良心の自由を侵害することを要求するものとは解されない。
最高裁判所の判例によれば、「単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明するに止まる程度」の謝罪広告であれば、これを新聞紙に掲載すべきことを命ずる判決は、被告に屈辱的若しくは苦役的労苦を科し、又は被告の有する倫理的な意思、良心の自由を侵害することを要求するものとは解されない。
(正答) 〇
(解説)
謝罪広告強制事件判決(最大判昭31.7.4)は、「単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明するに止まる程度のものにあっては、これが強制執行も代替作為として民訴733条の手続によることを得るものといわなければならない。」として、「謝罪広告を新聞紙に掲載すべきことを命ずる原判決は、上告人に屈辱的若くは苦役的労苦を科し、又は上告人の有する倫理的な意思、良心の自由を侵害することを要求するものとは解せられないし、また民法723条にいわゆる適当な処分というべきであるから所論は採用できない。」としている。
謝罪広告強制事件判決(最大判昭31.7.4)は、「単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明するに止まる程度のものにあっては、これが強制執行も代替作為として民訴733条の手続によることを得るものといわなければならない。」として、「謝罪広告を新聞紙に掲載すべきことを命ずる原判決は、上告人に屈辱的若くは苦役的労苦を科し、又は上告人の有する倫理的な意思、良心の自由を侵害することを要求するものとは解せられないし、また民法723条にいわゆる適当な処分というべきであるから所論は採用できない。」としている。
(H26 司法 第4問 イ)
裁判所が謝罪広告を強制しても、単に事態の真相を告白し、陳謝の意を表明するにとどまる場合は、良心の自由を不当に制限することにはならない。
裁判所が謝罪広告を強制しても、単に事態の真相を告白し、陳謝の意を表明するにとどまる場合は、良心の自由を不当に制限することにはならない。
(正答) 〇
(解説)
謝罪広告強制事件判決(最大判昭31.7.4)は、「単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明するに止まる程度のものにあっては、これが強制執行も代替作為として民訴733条の手続によることを得るものといわなければならない。」として、「謝罪広告を新聞紙に掲載すべきことを命ずる原判決は、上告人に屈辱的若くは苦役的労苦を科し、又は上告人の有する倫理的な意思、良心の自由を侵害することを要求するものとは解せられないし、また民法723条にいわゆる適当な処分というべきであるから所論は採用できない。」としている。
謝罪広告強制事件判決(最大判昭31.7.4)は、「単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明するに止まる程度のものにあっては、これが強制執行も代替作為として民訴733条の手続によることを得るものといわなければならない。」として、「謝罪広告を新聞紙に掲載すべきことを命ずる原判決は、上告人に屈辱的若くは苦役的労苦を科し、又は上告人の有する倫理的な意思、良心の自由を侵害することを要求するものとは解せられないし、また民法723条にいわゆる適当な処分というべきであるから所論は採用できない。」としている。
(H30 司法 第3問 ア)
良心の自由とは是非弁別の判断に関する事項を外部に表現する自由及び表現しない自由をも広く含むと解されるが、裁判所が謝罪広告を強制したとしても、単に事態の真相を告白し、陳謝の意を表明するにとどまる限りは、良心の自由を不当に制限するものではない。
良心の自由とは是非弁別の判断に関する事項を外部に表現する自由及び表現しない自由をも広く含むと解されるが、裁判所が謝罪広告を強制したとしても、単に事態の真相を告白し、陳謝の意を表明するにとどまる限りは、良心の自由を不当に制限するものではない。
(正答) ✕
(解説)
謝罪広告強制事件判決(最大判昭31.7.4)は、「単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明するに止まる程度のものにあっては、これが強制執行も代替作為として民訴733条の手続によることを得るものといわなければならない。」として、「謝罪広告を新聞紙に掲載すべきことを命ずる原判決は、上告人に屈辱的若くは苦役的労苦を科し、又は上告人の有する倫理的な意思、良心の自由を侵害することを要求するものとは解せられないし、また民法723条にいわゆる適当な処分というべきであるから所論は採用できない。」としているため、本肢後段は正しい。しかし、同判決は、良心の自由については何ら言及していない。
(R3 司法 第4問 ア)
憲法第19条の保障する良心の自由は、単に事物に関する是非弁別の内心的自由のみならず、かかる是非弁別の判断に関する事項を外部的に表現するか否かの自由をも包含するものであるから、謝罪広告の掲載を命ずる判決は、良心の自由への直接的な制約となるが、その内容が名誉回復のために必要な限度にとどまるものであれば、同条に違反しない。
憲法第19条の保障する良心の自由は、単に事物に関する是非弁別の内心的自由のみならず、かかる是非弁別の判断に関する事項を外部的に表現するか否かの自由をも包含するものであるから、謝罪広告の掲載を命ずる判決は、良心の自由への直接的な制約となるが、その内容が名誉回復のために必要な限度にとどまるものであれば、同条に違反しない。
(正答) ✕
(解説)
謝罪広告強制事件判決(最大判昭31.7.4)は、「謝罪広告を新聞紙に掲載すべきことを命ずる原判決は、上告人に屈辱的若くは苦役的労苦を科し、又は上告人の有する倫理的な意思、良心の自由を侵害することを要求するものとは解せられないし、また民法723条にいわゆる適当な処分というべきであるから所論は採用できない。」としており、謝罪広告の掲載を命ずる判決が良心の自由への直接的な制約となるとは解していない。
謝罪広告強制事件判決(最大判昭31.7.4)は、「謝罪広告を新聞紙に掲載すべきことを命ずる原判決は、上告人に屈辱的若くは苦役的労苦を科し、又は上告人の有する倫理的な意思、良心の自由を侵害することを要求するものとは解せられないし、また民法723条にいわゆる適当な処分というべきであるから所論は採用できない。」としており、謝罪広告の掲載を命ずる判決が良心の自由への直接的な制約となるとは解していない。
総合メモ
東京電力塩山営業所事件 最二小判昭和63年2月5日
概要
企業が職員に共産党員であるか否かを問いただし、党員で無いことを書面で提出させることは、精神的自由を侵害するものではない。
判例
事案:不法行為に基づく損害賠償請求訴訟において、企業秘密の漏えいに絡んだ調査活動の一環として、女子職員に共産党か否かを問いただし、かつ、党員でない旨を書面で提出するよう求めた営業所長の行為が、職員の精神的自由を侵害するものであったかが問題となった。
判旨:「右事実関係によれば、亡斎藤が本件話合いをするに至った動機、目的は、本件営業所の公開されるべきでないとされていた情報が外部に漏れ、共産党の機関紙「赤旗」紙上に報道されたことから、当時、本件営業所の所長であった亡斎藤が、その取材源ではないかと疑われていた上告人から事情を聴取することにあり、本件話合いは企業秘密の漏えいという企業秩序違反行為の調査をするために行われたことが明らかであるから、亡斎藤が本件話合いを持つに至ったことの必要性、合理性は、これを肯認することができる。右事実関係によれば、亡斎藤は、本件話合いの比較的冒頭の段階で、上告人に対し本件質問をしたのであるが、右調査目的との関連性を明らかにしないで、上告人に対して共産党員であるか否かを尋ねたことは、調査の方法として、その相当性に欠ける面があるものの、前記赤旗の記事の取材源ではないかと疑われていた上告人に対し、共産党との係わりの有無を尋ねることには、その必要性、合理性を肯認することができないわけではなく、また、本件質問の態様は、返答を強要するものではなかったというのであるから、本件質問は、社会的に許容し得る限界を超えて上告人の精神的自由を侵害した違法行為であるとはいえない。さらに、前記事実関係によれば、本件話合いの中で、上告人が本件質問に対し共産党員ではない旨の返答をしたところ、亡斎藤は、上告人に対し本件書面交付の要求を繰り返したというのであるが、企業内においても労働者の思想、信条等の精神的自由は十分尊重されるべきであることにかんがみると、亡斎藤が、本件書面交付の要求と右調査目的との関連性を明らかにしないで、右要求を繰り返したことは、このような調査に当たる者として慎重な配慮を欠いたものというべきであり、調査方法として不相当な面があるといわざるを得ない。しかしながら、前記事実関係によれば、本件書面交付の要求は、上告人が共産党員ではない旨の返答をしたことから、亡斎藤がその旨を書面にするように説得するに至ったものであり、右要求は強要にわたるものではなく、また、本件話合いの中で、亡斎藤が、上告人に対し、上告人が本件書面交付の要求を拒否することによって不利益な取扱いを受ける虞のあることを示唆したり、右要求に応じることによって有利な取扱いを受け得る旨の発言をした事実はなく、さらに、上告人は右要求を拒否した、というのであって、右事実関係に照らすと、亡斎藤がした本件書面交付の要求は、社会的に許容し得る限界を超えて上告人の精神的自由を侵害した違法行為であるということはできない。
したがって、右確定事実の下において、上告人につき所論の不法行為に基づく損害賠償請求権が認められないとした原審の判断は、これを正当として是認することができる。」
判旨:「右事実関係によれば、亡斎藤が本件話合いをするに至った動機、目的は、本件営業所の公開されるべきでないとされていた情報が外部に漏れ、共産党の機関紙「赤旗」紙上に報道されたことから、当時、本件営業所の所長であった亡斎藤が、その取材源ではないかと疑われていた上告人から事情を聴取することにあり、本件話合いは企業秘密の漏えいという企業秩序違反行為の調査をするために行われたことが明らかであるから、亡斎藤が本件話合いを持つに至ったことの必要性、合理性は、これを肯認することができる。右事実関係によれば、亡斎藤は、本件話合いの比較的冒頭の段階で、上告人に対し本件質問をしたのであるが、右調査目的との関連性を明らかにしないで、上告人に対して共産党員であるか否かを尋ねたことは、調査の方法として、その相当性に欠ける面があるものの、前記赤旗の記事の取材源ではないかと疑われていた上告人に対し、共産党との係わりの有無を尋ねることには、その必要性、合理性を肯認することができないわけではなく、また、本件質問の態様は、返答を強要するものではなかったというのであるから、本件質問は、社会的に許容し得る限界を超えて上告人の精神的自由を侵害した違法行為であるとはいえない。さらに、前記事実関係によれば、本件話合いの中で、上告人が本件質問に対し共産党員ではない旨の返答をしたところ、亡斎藤は、上告人に対し本件書面交付の要求を繰り返したというのであるが、企業内においても労働者の思想、信条等の精神的自由は十分尊重されるべきであることにかんがみると、亡斎藤が、本件書面交付の要求と右調査目的との関連性を明らかにしないで、右要求を繰り返したことは、このような調査に当たる者として慎重な配慮を欠いたものというべきであり、調査方法として不相当な面があるといわざるを得ない。しかしながら、前記事実関係によれば、本件書面交付の要求は、上告人が共産党員ではない旨の返答をしたことから、亡斎藤がその旨を書面にするように説得するに至ったものであり、右要求は強要にわたるものではなく、また、本件話合いの中で、亡斎藤が、上告人に対し、上告人が本件書面交付の要求を拒否することによって不利益な取扱いを受ける虞のあることを示唆したり、右要求に応じることによって有利な取扱いを受け得る旨の発言をした事実はなく、さらに、上告人は右要求を拒否した、というのであって、右事実関係に照らすと、亡斎藤がした本件書面交付の要求は、社会的に許容し得る限界を超えて上告人の精神的自由を侵害した違法行為であるということはできない。
したがって、右確定事実の下において、上告人につき所論の不法行為に基づく損害賠償請求権が認められないとした原審の判断は、これを正当として是認することができる。」
過去問・解説
(H26 司法 第4問 ア)
企業が従業員に対して特定政党の党員か否かを調査することは、当該調査の必要性があり、不利益な取扱いのおそれがあることを示唆せず、強要にわたらない限り、許容される。
企業が従業員に対して特定政党の党員か否かを調査することは、当該調査の必要性があり、不利益な取扱いのおそれがあることを示唆せず、強要にわたらない限り、許容される。
(正答) 〇
(解説)
東京電力塩山営業所事件判決(最判昭63.2.5)は、①「本件話合いは企業秘密の漏えいという企業秩序違反行為の調査をするために行われたことが明らかであるから、亡斎藤が本件話合いを持つに至ったことの必要性、合理性は、これを肯認することができる。右事実関係によれば、亡斎藤は、本件話合いの比較的冒頭の段階で、上告人に対し本件質問をしたのであるが、右調査目的との関連性を明らかにしないで、上告人に対して共産党員であるか否かを尋ねたことは、調査の方法として、その相当性に欠ける面があるものの、前記赤旗の記事の取材源ではないかと疑われていた上告人に対し、共産党との係わりの有無を尋ねることには、その必要性、合理性を肯認することができないわけではなく、また、本件質問の態様は、返答を強要するものではなかったというのであるから、本件質問は、社会的に許容し得る限界を超えて上告人の精神的自由を侵害した違法行為であるとはいえない。」、②「本件書面交付の要求は、上告人が共産党員ではない旨の返答をしたことから、亡斎藤がその旨を書面にするように説得するに至ったものであり、右要求は強要にわたるものではなく、また、本件話合いの中で、亡斎藤が、上告人に対し、上告人が本件書面交付の要求を拒否することによって不利益な取扱いを受ける虞のあることを示唆したり、右要求に応じることによって有利な取扱いを受け得る旨の発言をした事実はなく、さらに、上告人は右要求を拒否した、というのであって、右事実関係に照らすと、亡斎藤がした本件書面交付の要求は、社会的に許容し得る限界を超えて上告人の精神的自由を侵害した違法行為であるということはできない。」としている。
東京電力塩山営業所事件判決(最判昭63.2.5)は、①「本件話合いは企業秘密の漏えいという企業秩序違反行為の調査をするために行われたことが明らかであるから、亡斎藤が本件話合いを持つに至ったことの必要性、合理性は、これを肯認することができる。右事実関係によれば、亡斎藤は、本件話合いの比較的冒頭の段階で、上告人に対し本件質問をしたのであるが、右調査目的との関連性を明らかにしないで、上告人に対して共産党員であるか否かを尋ねたことは、調査の方法として、その相当性に欠ける面があるものの、前記赤旗の記事の取材源ではないかと疑われていた上告人に対し、共産党との係わりの有無を尋ねることには、その必要性、合理性を肯認することができないわけではなく、また、本件質問の態様は、返答を強要するものではなかったというのであるから、本件質問は、社会的に許容し得る限界を超えて上告人の精神的自由を侵害した違法行為であるとはいえない。」、②「本件書面交付の要求は、上告人が共産党員ではない旨の返答をしたことから、亡斎藤がその旨を書面にするように説得するに至ったものであり、右要求は強要にわたるものではなく、また、本件話合いの中で、亡斎藤が、上告人に対し、上告人が本件書面交付の要求を拒否することによって不利益な取扱いを受ける虞のあることを示唆したり、右要求に応じることによって有利な取扱いを受け得る旨の発言をした事実はなく、さらに、上告人は右要求を拒否した、というのであって、右事実関係に照らすと、亡斎藤がした本件書面交付の要求は、社会的に許容し得る限界を超えて上告人の精神的自由を侵害した違法行為であるということはできない。」としている。
(R2 共通 第4問 ア)
企業内においても労働者の思想、信条等の精神的自由は十分尊重されるべきであることに鑑みると、企業がその労働者に対して特定政党への所属の有無を確認するだけでなく、当該政党に所属しない旨の書面を要求する行為は、それが企業秘密の漏えいという企業秩序違反行為に関する調査の一環として行われたとしても、労働者の思想・信条の自由に対する直接的制約であるから、その経緯や調査方法の相当性にかかわらず、違法性が認められる。
企業内においても労働者の思想、信条等の精神的自由は十分尊重されるべきであることに鑑みると、企業がその労働者に対して特定政党への所属の有無を確認するだけでなく、当該政党に所属しない旨の書面を要求する行為は、それが企業秘密の漏えいという企業秩序違反行為に関する調査の一環として行われたとしても、労働者の思想・信条の自由に対する直接的制約であるから、その経緯や調査方法の相当性にかかわらず、違法性が認められる。
(正答) ✕
(解説)
東京電力塩山営業所事件判決(最判昭63.2.5)は、不法行為に基づく損害賠償請求訴訟において、企業秘密の漏えいに絡んだ調査活動の一環として、女子職員に共産党か否かを問いただし、かつ、党員でない旨を書面で提出するよう求めた営業所長の行為が、職員の精神的自由を侵害するものであったかが問題となった事案において、いずれの行為についても「社会的に許容し得る限界を超えて上告人の精神的自由を侵害した違法行為であるとはいえない。」としている。
東京電力塩山営業所事件判決(最判昭63.2.5)は、不法行為に基づく損害賠償請求訴訟において、企業秘密の漏えいに絡んだ調査活動の一環として、女子職員に共産党か否かを問いただし、かつ、党員でない旨を書面で提出するよう求めた営業所長の行為が、職員の精神的自由を侵害するものであったかが問題となった事案において、いずれの行為についても「社会的に許容し得る限界を超えて上告人の精神的自由を侵害した違法行為であるとはいえない。」としている。
(R5 司法 第2問 ウ)
企業内においても労働者の思想、信条等の精神的自由は十分尊重されるべきであることから、 企業が労働者に対し、その者が特定の政党に所属するかどうかに関する書面の提出を求めることは、それがたとえ企業の組織秩序の維持を目的とする調査の一環であり、強要にわたるような態様のものでなかったとしても、社会的に許容し得る限界を超えて労働者の精神的自由を侵害した違法行為である。
企業内においても労働者の思想、信条等の精神的自由は十分尊重されるべきであることから、 企業が労働者に対し、その者が特定の政党に所属するかどうかに関する書面の提出を求めることは、それがたとえ企業の組織秩序の維持を目的とする調査の一環であり、強要にわたるような態様のものでなかったとしても、社会的に許容し得る限界を超えて労働者の精神的自由を侵害した違法行為である。
(正答) ✕
(解説)
東京電力塩山営業所事件判決(最判昭63.2.5)は、不法行為に基づく損害賠償請求訴訟において、企業秘密の漏えいに絡んだ調査活動の一環として、女子職員に共産党か否かを問いただし、かつ、党員でない旨を書面で提出するよう求めた営業所長の行為が、職員の精神的自由を侵害するものであったかが問題となった事案において、いずれの行為についても「社会的に許容し得る限界を超えて上告人の精神的自由を侵害した違法行為であるとはいえない。」としている。
東京電力塩山営業所事件判決(最判昭63.2.5)は、不法行為に基づく損害賠償請求訴訟において、企業秘密の漏えいに絡んだ調査活動の一環として、女子職員に共産党か否かを問いただし、かつ、党員でない旨を書面で提出するよう求めた営業所長の行為が、職員の精神的自由を侵害するものであったかが問題となった事案において、いずれの行為についても「社会的に許容し得る限界を超えて上告人の精神的自由を侵害した違法行為であるとはいえない。」としている。
総合メモ
麴町中学校内申書事件 最二小判昭和63年7月15日
概要
学校教育法施行規則54条の3に規定する調査書に学生Xの思想・信条と関連を有するXの外部的行動を記載し、高等学校の入学者選抜の資料に供したことは、憲法19条にも憲法21条1項にも違反しない。
判例
事案:Xは、東京都千代田区立麹町中学校を卒業するにあたり、受験した複数の高等学校すべてに不合格となったところ、受験に際して麹町中学校から各高校に提出された内申書には、《備考》欄に「校内において、麹町中全共闘を名乗り、機関紙『砦』を発行した。学校文化祭の際、文化祭粉砕を叫んで他校生徒とともに校内に乱入しビラまきを行った。大学ML派の集会に参加している。学校側の指導説得をきかないでビラを配ったり、落書きをした」と記載され、《出欠の記録》欄の《欠席の主な理由》欄には「風邪、発熱、集会又はデモに参加して疲労のため」との趣旨が記載されていた。
Xは、不合格の原因は上記内申書の記載にある等の理由から、千代田区及び東京都に対して国家賠償請求訴訟を提起した。
判旨:①「原判決が憲法19条によりその自由の保障される思想、信条を「具体的内容をもつた一定の考え方」として限定的に極めて狭く解し、また、原判決が思想、信条が行動として外部に現われた場合には同条による保障が及ばないとしたのは、いずれも同条の解釈を誤つたものとする点については、原判決を正解しない独自の見解であつて、前提を欠き、採用できない。
……本件調査書の備考欄及び特記事項欄にはおおむね『校内において麹町中全共闘を名乗り、機関紙『砦』を発行した。学校文化祭の際、文化祭粉砕を叫んで他校生徒と共に校内に乱入し、ビラまきを行つた。大学生ML派の集会に参加している。学校側の指導説得をきかないで、ビラを配つたり、落書をした。』との記載が、欠席の主な理由欄には『風邪、発熱、集会又はデモに参加して疲労のため』という趣旨の記載がされていたというのであるが、…いずれの記載も、Xの思想、信条そのものを記載したものでないことは明らかであり、右の記載に係る外部的行為によつてはXの思想、信条を了知し得るものではないし、また、Xの思想、信条自体を高等学校の入学者選抜の資料に供したものとは到底解することができないから、所論違憲の主張は、その前提を欠き、採用できない。」
②「原判決の適法に認定したところによると、本件中学校においては、学校当局の許可を受けないで校内においてビラ等の文書を配付すること等を禁止する旨を規定した生徒会規則が存在し、本件調査書の備考欄等の記載事項中、上告人が麹町中全共闘を名乗つて機関紙「砦」を発行したこと、学校文化祭の際ビラまきを行つたこと、ビラを配付したり落書をしたことの行為がいずれも学校当局の許可なくしてされたものであることは、本件調査書に記載されたところから明らかである。
表現の自由といえども公共の福祉によつて制約を受けるものであるが(最高裁昭和年(行ツ)第156号同59年12月12日大法廷判決・民集38巻12号1308頁参照)、前記の上告人の行為は、原審の適法に確定したところによれば、いずれも中学校における学習とは全く関係のないものというのであり、かかるビラ等の文書の配付及び落書を自由とすることは、中学校における教育環境に悪影響を及ぼし、学習効果の減殺等学習効果をあげる上において放置できない弊害を発生させる相当の蓋然性があるものということができるのであるから、かかる弊害を未然に防止するため、右のような行為をしないよう指導説得することはもちろん、前記生徒会規則において生徒の校内における文書の配付を学校当局の許可にかからしめ、その許可のない文書の配付を禁止することは、必要かつ合理的な範囲の制約であつて、憲法二一条に違反するものでないことは、当裁判所昭和52年(オ)第927号同58年6月22日大法廷判決(民集37巻5号793頁)の趣旨に徴して明らかである。したがつて、仮に、義務教育課程にある中学生について一般人と同様の表現の自由があるものとしても、前記…において説示したとおり、調査書には、入学者の選抜の資料の一とされる目的に適合するよう生徒の性格、行動に関しても、これを把握し得る客観的事実を公正に記載すべきものである以上、上告人の右生徒会規則に違反する前記行為及び大学生ML派の集会の参加行為をいずれも上告人の性格、行動を把握し得る客観的事実としてこれらを本件調査書に記載し、入学者選抜の資料に供したからといつて、上告人の表現の自由を侵し又は違法に制約するものとすることはできず、所論は採用できない。」
過去問・解説
(H26 司法 第4問 ウ)
中学校の内申書にその学校の全共闘を名乗って機関紙を発行したなどと記載した場合、それ自体は客観的な事実であっても、その記載に係る外部的行為から一定の思想信条を了知し得る。
中学校の内申書にその学校の全共闘を名乗って機関紙を発行したなどと記載した場合、それ自体は客観的な事実であっても、その記載に係る外部的行為から一定の思想信条を了知し得る。
(正答) ✕
(解説)
麹町中学校内申書事件判決(最判昭63.7.15)が、「本件調査書の備考欄及び特記事項欄にはおおむね『校内において麹町中全共闘を名乗り、機関紙『砦』を発行した。学校文化祭の際、文化祭粉砕を叫んで他校生徒と共に校内に乱入し、ビラまきを行った。大学生ML派の集会に参加している。学校側の指導説得をきかないで、ビラを配ったり、落書をした。』との記載が、欠席の主な理由欄には「風邪、発熱、集会又はデモに参加して疲労のため」という趣旨の記載がされていたというのであるが、右のいずれの記載も、上告人の思想、信条そのものを記載したものでないことは明らかであり、右の記載に係る外部的行為によっては上告人の思想、信条を了知し得るものではない」としている。
麹町中学校内申書事件判決(最判昭63.7.15)が、「本件調査書の備考欄及び特記事項欄にはおおむね『校内において麹町中全共闘を名乗り、機関紙『砦』を発行した。学校文化祭の際、文化祭粉砕を叫んで他校生徒と共に校内に乱入し、ビラまきを行った。大学生ML派の集会に参加している。学校側の指導説得をきかないで、ビラを配ったり、落書をした。』との記載が、欠席の主な理由欄には「風邪、発熱、集会又はデモに参加して疲労のため」という趣旨の記載がされていたというのであるが、右のいずれの記載も、上告人の思想、信条そのものを記載したものでないことは明らかであり、右の記載に係る外部的行為によっては上告人の思想、信条を了知し得るものではない」としている。
(R3 司法 第4問 イ)
公立中学校の校長が、同校の生徒について、大学生の政治集会に参加しているなどと記載した内申書を作成提出することは、同記載が生徒の思想、信条そのものを記載したものでなく、同記載に係る外部的行為によっては生徒の思想、信条を了知し得るものではないし、また、生徒の思想、信条自体を高等学校の入学者選抜の資料に供したものと解することはできないから、憲法第19条に違反しない。
公立中学校の校長が、同校の生徒について、大学生の政治集会に参加しているなどと記載した内申書を作成提出することは、同記載が生徒の思想、信条そのものを記載したものでなく、同記載に係る外部的行為によっては生徒の思想、信条を了知し得るものではないし、また、生徒の思想、信条自体を高等学校の入学者選抜の資料に供したものと解することはできないから、憲法第19条に違反しない。
(正答) 〇
(解説)
麹町中学校内申書事件判決(最判昭63.7.15)が、「本件調査書の備考欄及び特記事項欄にはおおむね『校内において麹町中全共闘を名乗り、機関紙『砦』を発行した。学校文化祭の際、文化祭粉砕を叫んで他校生徒と共に校内に乱入し、ビラまきを行った。大学生ML派の集会に参加している。学校側の指導説得をきかないで、ビラを配ったり、落書をした。』との記載が、欠席の主な理由欄には「風邪、発熱、集会又はデモに参加して疲労のため」という趣旨の記載がされていたというのであるが、右のいずれの記載も、上告人の思想、信条そのものを記載したものでないことは明らかであり、右の記載に係る外部的行為によっては上告人の思想、信条を了知し得るものではないし、また、上告人の思想、信条自体を高等学校の入学者選抜の資料に供したものとは到底解することができないから、所論違憲の主張は、その前提を欠き、採用できない。」としている。
麹町中学校内申書事件判決(最判昭63.7.15)が、「本件調査書の備考欄及び特記事項欄にはおおむね『校内において麹町中全共闘を名乗り、機関紙『砦』を発行した。学校文化祭の際、文化祭粉砕を叫んで他校生徒と共に校内に乱入し、ビラまきを行った。大学生ML派の集会に参加している。学校側の指導説得をきかないで、ビラを配ったり、落書をした。』との記載が、欠席の主な理由欄には「風邪、発熱、集会又はデモに参加して疲労のため」という趣旨の記載がされていたというのであるが、右のいずれの記載も、上告人の思想、信条そのものを記載したものでないことは明らかであり、右の記載に係る外部的行為によっては上告人の思想、信条を了知し得るものではないし、また、上告人の思想、信条自体を高等学校の入学者選抜の資料に供したものとは到底解することができないから、所論違憲の主張は、その前提を欠き、採用できない。」としている。
総合メモ
君が代ピアノ伴奏事件 最三小判平成19年2月27日
概要
市立小学校の校長が音楽専科の教諭に対し入学式における国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏を行うよう命じた職務命令は、憲法19条に違反しない。
判例
事案:A小学校の校長は、音楽専科の教諭Xに対し、入学式の国歌斉唱の際にピアノ伴奏を行うように命令したところ、Xがこれを拒否したため、入学式当日はあらかじめ用意されていた「君が代」の録音テープにより伴奏が行われた。
そこで、東京都教育委員会は、Xに対し、上記職務命令に従わなかったことが地方公務員法32条及び33条に違反するとして、地方公務員法29条1項1号ないし3号に基づき、戒告処分をした。
これに対し、Xは、上記職務命令は憲法19条に違反すること等から無効であるとして、戒告処分の取消訴訟を提起した。
判旨:①「Xは、「君が代」が過去の日本のアジア侵略と結び付いており、これを公然と歌ったり、伴奏することはできない、また、子どもに「君が代」がアジア侵略で果たしてきた役割等の正確な歴史的事実を教えず、子どもの思想及び良心の自由を実質的に保障する措置を執らないまま「君が代」を歌わせるという人権侵害に加担することはできないなどの思想及び良心を有すると主張するところ、このような考えは、「君が代」が過去の我が国において果たした役割に係わるX自身の歴史観ないし世界観及びこれに由来する社会生活上の信念等ということができる。しかしながら、学校の儀式的行事において「君が代」のピアノ伴奏をすべきでないとして本件入学式の国歌斉唱の際のピアノ伴奏を拒否することは、Xにとっては、上記の歴史観ないし世界観に基づく一つの選択ではあろうが、一般的には、これと不可分に結び付くものということはできず、Xに対して本件入学式の国歌斉唱の際にピアノ伴奏を求めることを内容とする本件職務命令が、直ちにXの有する上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものと認めることはできないというべきである。」
②「他方において、本件職務命令当時、公立小学校における入学式や卒業式において、国歌斉唱として「君が代」が斉唱されることが広く行われていたことは周知の事実であり、客観的に見て、入学式の国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏をするという行為自体は、音楽専科の教諭等にとって通常想定され期待されるものであって、上記伴奏を行う教諭等が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することは困難なものであり、特に、職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合には、上記のように評価することは一層困難であるといわざるを得ない。本件職務命令は、上記のように、公立小学校における儀式的行事において広く行われ、A小学校でも従前から入学式等において行われていた国歌斉唱に際し、音楽専科の教諭にそのピアノ伴奏を命ずるものであって、Xに対して、特定の思想を持つことを強制したり、あるいはこれを禁止したりするものではなく、特定の思想の有無について告白することを強要するものでもなく、児童に対して一方的な思想や理念を教え込むことを強制するものとみることもできない。」
③「さらに、憲法15条2項は、「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」と定めており、地方公務員も、地方公共団体の住民全体の奉仕者としての地位を有するものである。こうした地位の特殊性及び職務の公共性にかんがみ、地方公務員法30条は、地方公務員は、全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、かつ、職務の遂行に当たっては全力を挙げてこれに専念しなければならない旨規定し、同法32条は、上記の地方公務員がその職務を遂行するに当たって、法令等に従い、かつ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない旨規定するところ、Xは、A小学校の音楽専科の教諭であって、法令等や職務上の命令に従わなければならない立場にあり、校長から同校の学校行事である入学式に関して本件職務命令を受けたものである。そして、学校教育法18条2号は、小学校教育の目標として「郷土及び国家の現状と伝統について、正しい理解に導き、進んで国際協調の精神を養うこと。」を規定し、学校教育法…20条、学校教育法施行規則…25条に基づいて定められた小学校学習指導要領…は、学校行事のうち儀式的行事について、「学校生活に有意義な変化や折り目を付け、厳粛で清新な気分を味わい、新しい生活の展開への動機付けとなるような活動を行うこと。」と定めるところ、同章第3の3は、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。」と定めている。入学式等において音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で国歌斉唱を行うことは、これらの規定の趣旨にかなうものであり、A小学校では従来から入学式等において音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で「君が代」の斉唱が行われてきたことに照らしても、本件職務命令は、その目的及び内容において不合理であるということはできないというべきである。」
④「以上の諸点にかんがみると、本件職務命令は、Xの思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に反するとはいえないと解するのが相当である。なお、Xは、雅楽を基本にしながらドイツ和声を付けているという音楽的に不適切な「君が代」を平均律のピアノという不適切な方法で演奏することは音楽家としても教育者としてもできないという思想及び良心を有するとも主張するが、以上に説示したところによれば、Xがこのような考えを有することから本件職務命令が憲法19条に反することとなるといえないことも明らかである。」
過去問・解説
(H21 司法 第5問 ア)
判例(最判平成19年2月27日)は、校長の職務命令が、「君が代」について当該教諭が有する歴史観ないし世界観それ自体を直接否定するものであることを認めつつも、公務員は全体の奉仕者であって、思想・良心の自由も職務の公共性に由来する内在的制約を受けるから、上記職務命令が当該教諭の思想・良心の自由を制約するものであっても受忍すべきであるとした。
判例(最判平成19年2月27日)は、校長の職務命令が、「君が代」について当該教諭が有する歴史観ないし世界観それ自体を直接否定するものであることを認めつつも、公務員は全体の奉仕者であって、思想・良心の自由も職務の公共性に由来する内在的制約を受けるから、上記職務命令が当該教諭の思想・良心の自由を制約するものであっても受忍すべきであるとした。
(正答) ✕
(解説)
君が代ピアノ伴奏事件判決(最判平19.2.27)は、「学校の儀式的行事において「君が代」のピアノ伴奏をすべきでないとして本件入学式の国歌斉唱の際のピアノ伴奏を拒否することは、上告人にとっては、上記の歴史観ないし世界観に基づく一つの選択ではあろうが、一般的には、これと不可分に結び付くものということはできず、上告人に対して本件入学式の国歌斉唱の際にピアノ伴奏を求めることを内容とする本件職務命令が、直ちに上告人の有する上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものと認めることはできないというべきである。」としており、校長の職務命令が、「君が代」について当該教諭が有する歴史観ないし世界観それ自体を直接否定するものであるとは述べていない。
君が代ピアノ伴奏事件判決(最判平19.2.27)は、「学校の儀式的行事において「君が代」のピアノ伴奏をすべきでないとして本件入学式の国歌斉唱の際のピアノ伴奏を拒否することは、上告人にとっては、上記の歴史観ないし世界観に基づく一つの選択ではあろうが、一般的には、これと不可分に結び付くものということはできず、上告人に対して本件入学式の国歌斉唱の際にピアノ伴奏を求めることを内容とする本件職務命令が、直ちに上告人の有する上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものと認めることはできないというべきである。」としており、校長の職務命令が、「君が代」について当該教諭が有する歴史観ないし世界観それ自体を直接否定するものであるとは述べていない。
(H21 司法 第5問 イ)
判例(最判平成19年2月27日)は、「君が代」のピアノ伴奏の強制により制約される当該教諭の思想・良心の自由と、「君が代」の伴奏が録音テープで行われることによって損なわれる入学式進行の秩序・規律とを、具体的に比較衡量した上で、「君が代」をテープ伴奏にすることによる違和感は看過し難いから、校長の職務命令が不合理とはいえないとした。
判例(最判平成19年2月27日)は、「君が代」のピアノ伴奏の強制により制約される当該教諭の思想・良心の自由と、「君が代」の伴奏が録音テープで行われることによって損なわれる入学式進行の秩序・規律とを、具体的に比較衡量した上で、「君が代」をテープ伴奏にすることによる違和感は看過し難いから、校長の職務命令が不合理とはいえないとした。
(正答) ✕
(解説)
君が代ピアノ伴奏事件判決(最判平19.2.27)は、憲法15条2項、地方地自法30条・32条、学校教育法18条2号・20条、学校教育法施行規則25条などを参照した上で、「入学式等において音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で国歌斉唱を行うことは、これらの規定の趣旨にかなうものであり、A小学校では従来から入学式等において音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で「君が代」の斉唱が行われてきたことに照らしても、本件職務命令は、その目的及び内容において不合理であるということはできないというべきである。」と述べ、「本件職務命令は、Xの思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に反するとはいえないと解するのが相当である。」と結論付けている。
したがって、本判決は、「「君が代」のピアノ伴奏の強制により制約される当該教諭の思想・良心の自由と、「君が代」の伴奏が録音テープで行われることによって損なわれる入学式進行の秩序・規律とを、具体的に比較衡量…」(本肢)するという判断手法は用いていない。
したがって、本判決は、「「君が代」のピアノ伴奏の強制により制約される当該教諭の思想・良心の自由と、「君が代」の伴奏が録音テープで行われることによって損なわれる入学式進行の秩序・規律とを、具体的に比較衡量…」(本肢)するという判断手法は用いていない。
(H21 司法 第5問 ウ)
判例(最判平成19年2月27日)は、入学式の国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏をする行為は、音楽専科の教諭にとって通常想定され期待されるものであり、当該教諭が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することは困難であって、校長の職務命令は当該教諭に対し特定の思想を持つことを強制したり禁止したりするものではないとした。
判例(最判平成19年2月27日)は、入学式の国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏をする行為は、音楽専科の教諭にとって通常想定され期待されるものであり、当該教諭が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することは困難であって、校長の職務命令は当該教諭に対し特定の思想を持つことを強制したり禁止したりするものではないとした。
(正答) 〇
(解説)
君が代ピアノ伴奏事件判決(最判平19.2.27)は、「入学式の国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏をするという行為自体は、音楽専科の教諭等にとって通常想定され期待されるものであって、上記伴奏を行う教諭等が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することは困難なものであり、特に、職務上の命令にしたがってこのような行為が行われる場合には、上記のように評価することは一層困難であるといわざるを得ない。本件職務命令は、上記のように、公立小学校における儀式的行事において広く行われ、A小学校でも従前から入学式等において行われていた国歌斉唱に際し、音楽専科の教諭にそのピアノ伴奏を命ずるものであって、上告人に対して、特定の思想を持つことを強制したり、あるいはこれを禁止したりするものではなく、特定の思想の有無について告白することを強要するものでもなく、児童に対して一方的な思想や理念を教え込むことを強制するものとみることもできない。」としている。
君が代ピアノ伴奏事件判決(最判平19.2.27)は、「入学式の国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏をするという行為自体は、音楽専科の教諭等にとって通常想定され期待されるものであって、上記伴奏を行う教諭等が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することは困難なものであり、特に、職務上の命令にしたがってこのような行為が行われる場合には、上記のように評価することは一層困難であるといわざるを得ない。本件職務命令は、上記のように、公立小学校における儀式的行事において広く行われ、A小学校でも従前から入学式等において行われていた国歌斉唱に際し、音楽専科の教諭にそのピアノ伴奏を命ずるものであって、上告人に対して、特定の思想を持つことを強制したり、あるいはこれを禁止したりするものではなく、特定の思想の有無について告白することを強要するものでもなく、児童に対して一方的な思想や理念を教え込むことを強制するものとみることもできない。」としている。
(H29 共通 第4問 イ)
市立小学校の入学式における国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏をする行為は、音楽専科の教諭にとって通常想定され期待されるものであり、当該教諭が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することは困難なものである。
市立小学校の入学式における国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏をする行為は、音楽専科の教諭にとって通常想定され期待されるものであり、当該教諭が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することは困難なものである。
(正答) 〇
(解説)
君が代ピアノ伴奏事件判決(最判平19.2.27)は、「公立小学校における入学式や卒業式において、国歌斉唱として「君が代」が斉唱されることが広く行われていたことは周知の事実であり、客観的に見て、入学式の国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏をするという行為自体は、音楽専科の教諭等にとって通常想定され期待されるものであって、上記伴奏を行う教諭等が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することは困難なものであり、特に、職務上の命令にしたがってこのような行為が行われる場合には、上記のように評価することは一層困難であるといわざるを得ない。」としている。
君が代ピアノ伴奏事件判決(最判平19.2.27)は、「公立小学校における入学式や卒業式において、国歌斉唱として「君が代」が斉唱されることが広く行われていたことは周知の事実であり、客観的に見て、入学式の国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏をするという行為自体は、音楽専科の教諭等にとって通常想定され期待されるものであって、上記伴奏を行う教諭等が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することは困難なものであり、特に、職務上の命令にしたがってこのような行為が行われる場合には、上記のように評価することは一層困難であるといわざるを得ない。」としている。
(R3 司法 第4問 ウ)
公立小学校の校長が、音楽専科の教諭に対し、入学式における国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏を行うよう命ずることは、個人の歴史観ないし世界観に由来する行動と異なる外部的行為を求めるものとして、思想・良心の自由への間接的な制約となるが、地方公務員としての職務の公共性に加え、ピアノ伴奏が音楽専科の教諭にとって通常想定され期待される行為であることからすれば、許容される制約であり、憲法第19条に違反しない。
公立小学校の校長が、音楽専科の教諭に対し、入学式における国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏を行うよう命ずることは、個人の歴史観ないし世界観に由来する行動と異なる外部的行為を求めるものとして、思想・良心の自由への間接的な制約となるが、地方公務員としての職務の公共性に加え、ピアノ伴奏が音楽専科の教諭にとって通常想定され期待される行為であることからすれば、許容される制約であり、憲法第19条に違反しない。
(正答) ✕
(解説)
君が代ピアノ伴奏事件判決(最判平19.2.27)は、「学校の儀式的行事において「君が代」のピアノ伴奏をすべきでないとして本件入学式の国歌斉唱の際のピアノ伴奏を拒否することは、上告人にとっては、上記の歴史観ないし世界観に基づく一つの選択ではあろうが、一般的には、これと不可分に結び付くものということはできず、上告人に対して本件入学式の国歌斉唱の際にピアノ伴奏を求めることを内容とする本件職務命令が、直ちに上告人の有する上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものと認めることはできない」と述べており、本件職務命令が思想・良心の自由に対する間接的な制約に当たることについて明示的に認定はしていない。
君が代ピアノ伴奏事件判決(最判平19.2.27)は、「学校の儀式的行事において「君が代」のピアノ伴奏をすべきでないとして本件入学式の国歌斉唱の際のピアノ伴奏を拒否することは、上告人にとっては、上記の歴史観ないし世界観に基づく一つの選択ではあろうが、一般的には、これと不可分に結び付くものということはできず、上告人に対して本件入学式の国歌斉唱の際にピアノ伴奏を求めることを内容とする本件職務命令が、直ちに上告人の有する上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものと認めることはできない」と述べており、本件職務命令が思想・良心の自由に対する間接的な制約に当たることについて明示的に認定はしていない。
総合メモ
君が代起立斉唱事件 最二小判平成23年5月30日
概要
公立高等学校の校長が教諭に対し卒業式における国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し国歌を斉唱することを命じた職務命令は、憲法19条に違反しない。
判例
事案:都立高等学校の教諭であったXは、校長から卒業式における国歌斉唱の際に起立斉唱をするように職務命令を受けたにもかかわらず、これに従わず、国歌斉唱の際に起立しなかったことから、職務命令違反等を理由として、都教委から戒告処分を受けるとともに、定年退職に先立ち申し込んだ非常勤の嘱託員等の採用選考において都教委から不合格とされた。
そこで、Xは、上記職務命令は憲法19条に違反し、非常勤の嘱託員等の採用選考においてXを不合格としたことは違法であるなどと主張して、東京都を被告として国家賠償訴訟を提起した。
判旨:①「Xは、卒業式における国歌斉唱の際の起立斉唱行為を拒否する理由について、日本の侵略戦争の歴史を学ぶ在日朝鮮人、在日中国人の生徒に対し、「日の丸」や「君が代」を卒業式に組み入れて強制することは、教師としての良心が許さないという考えを有している旨主張する。このような考えは、「日の丸」や「君が代」が戦前の軍国主義等との関係で一定の役割を果たしたとするX自身の歴史観ないし世界観から生ずる社会生活上ないし教育上の信念等ということができる。しかしながら、本件職務命令当時、公立高等学校における卒業式等の式典において、国旗としての「日の丸」の掲揚及び国歌としての「君が代」の斉唱が広く行われていたことは周知の事実であって、学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は、一般的、客観的に見て、これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり、かつ、そのような所作として外部からも認識されるものというべきである。したがって、上記の起立斉唱行為は、その性質の点から見て、Xの有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものとはいえず、Xに対して上記の起立斉唱行為を求める本件職務命令は、上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない。また、上記の起立斉唱行為は、その外部からの認識という点から見ても、特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難であり、職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合には、上記のように評価することは一層困難であるといえるのであって、本件職務命令は、特定の思想を持つことを強制したり、これに反する思想を持つことを禁止したりするものではなく、特定の思想の有無について告白することを強要するものということもできない。そうすると、本件職務命令は、これらの観点において、個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできないというべきである。
②「もっとも、上記の起立斉唱行為は、教員が日常担当する教科等や日常従事する事務の内容それ自体には含まれないものであって、一般的、客観的に見ても、国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であるということができる。そうすると、自らの歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となる「日の丸」や「君が代」に対して敬意を表明することには応じ難いと考える者が、これらに対する敬意の表明の要素を含む行為を求められることは、その行為が個人の歴史観ないし世界観に反する特定の思想の表明に係る行為そのものではないとはいえ、個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなり、その限りにおいて、その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。」
②「もっとも、上記の起立斉唱行為は、教員が日常担当する教科等や日常従事する事務の内容それ自体には含まれないものであって、一般的、客観的に見ても、国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であるということができる。そうすると、自らの歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となる「日の丸」や「君が代」に対して敬意を表明することには応じ難いと考える者が、これらに対する敬意の表明の要素を含む行為を求められることは、その行為が個人の歴史観ないし世界観に反する特定の思想の表明に係る行為そのものではないとはいえ、個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなり、その限りにおいて、その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。」
③「なお、Xは、個人の歴史観ないし世界観との関係に加えて、学校の卒業式のような式典において一律の行動を強制されるべきではないという信条それ自体との関係でも個人の思想及び良心の自由が侵される旨主張するが、そのような信条との関係における制約の有無が問題となり得るとしても、それは、上記のような外部的行為が求められる場面においては、個人の歴史観ないし世界観との関係における間接的な制約の有無に包摂される事柄というべきであって、これとは別途の検討を要するものとは解されない。」
④「そこで、このような間接的な制約について検討するに、個人の歴史観ないし世界観には多種多様なものがあり得るのであり、それが内心にとどまらず、それに由来する行動の実行又は拒否という外部的行動として現れ、当該外部的行動が社会一般の規範等と抵触する場面において制限を受けることがあるところ、その制限が必要かつ合理的なものである場合には、その制限を介して生ずる上記の間接的な制約も許容され得るものというべきである。そして、職務命令においてある行為を求められることが、個人の歴史観ないし世界観に由来する行動と異なる外部的行為を求められることとなり、その限りにおいて、当該職務命令が個人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があると判断される場合にも、職務命令の目的及び内容には種々のものが想定され、また、上記の制限を介して生ずる制約の態様等も、職務命令の対象となる行為の内容及び性質並びにこれが個人の内心に及ぼす影響その他の諸事情に応じて様々であるといえる。したがって、このような間接的な制約が許容されるか否かは、職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量して、当該職務命令に上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるか否かという観点から判断するのが相当である。」
⑤「これを本件についてみるに、本件職務命令に係る起立斉唱行為は、前記のとおり、Xの歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となるものに対する敬意の表明の要素を含むものであることから、そのような敬意の表明には応じ難いと考えるXにとって、その歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為となるものである。この点に照らすと、本件職務命令は、一般的、客観的な見地からは式典における慣例上の儀礼的な所作とされる行為を求めるものであり、それが結果として上記の要素との関係においてその歴史観ないし世界観に由来する行動との相違を生じさせることとなるという点で、その限りでXの思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があるものということができる。他方、学校の卒業式や入学式等という教育上の特に重要な節目となる儀式的行事においては、生徒等への配慮を含め、教育上の行事にふさわしい秩序を確保して式典の円滑な進行を図ることが必要であるといえる。法令等においても、学校教育法は、高等学校教育の目標として国家の現状と伝統についての正しい理解と国際協調の精神の涵養を掲げ(同法42条1号、36条1号、18条2号)、同法43条及び学校教育法施行規則57条の2の規定に基づき高等学校教育の内容及び方法に関する全国的な大綱的基準として定められた高等学校学習指導要領も、学校の儀式的行事の意義を踏まえて国旗国歌条項を定めているところであり、また、国旗及び国歌に関する法律は、従来の慣習を法文化して、国旗は日章旗(「日の丸」)とし、国歌は「君が代」とする旨を定めている。そして、住民全体の奉仕者として法令等及び上司の職務上の命令に従って職務を遂行すべきこととされる地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性(憲法15条2項、地方公務員法30条、32条)に鑑み、公立高等学校の教諭であるXは、法令等及び職務上の命令に従わなければならない立場にあるところ、地方公務員法に基づき、高等学校学習指導要領に沿った式典の実施の指針を示した本件通達を踏まえて、その勤務する当該学校の校長から学校行事である卒業式に関して本件職務命令を受けたものである。これらの点に照らすと、本件職務命令は、公立高等学校の教諭であるXに対して当該学校の卒業式という式典における慣例上の儀礼的な所作として国歌斉唱の際の起立斉唱行為を求めることを内容とするものであって、高等学校教育の目標や卒業式等の儀式的行事の意義、在り方等を定めた関係法令等の諸規定の趣旨に沿い、かつ、地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性を踏まえた上で、生徒等への配慮を含め、教育上の行事にふさわしい秩序の確保とともに当該式典の円滑な進行を図るものであるということができる。以上の諸事情を踏まえると、本件職務命令については、前記のように外部的行動の制限を介してXの思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面はあるものの、職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量すれば、上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるものというべきである。以上の諸点に鑑みると、本件職務命令は、Xの思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19 条に違反するとはいえないと解するのが相当である。」
過去問・解説
(H28 司法 第4問 ア)
卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は、一般的、客観的に見て、これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり、校長の職務命令は、「日の丸」や「君が代」に関する当該教諭の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない。
卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は、一般的、客観的に見て、これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり、校長の職務命令は、「日の丸」や「君が代」に関する当該教諭の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない。
(正答) 〇
(解説)
君が代起立斉唱事件判決(最判平23.5.30)は、「学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は、一般的、客観的に見て、これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり、かつ、そのような所作として外部からも認識されるものというべきである。したがって、上記の起立斉唱行為は、その性質の点から見て、上告人の有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものとはいえず、上告人に対して上記の起立斉唱行為を求める本件職務命令は、上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない。」としている。
君が代起立斉唱事件判決(最判平23.5.30)は、「学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は、一般的、客観的に見て、これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり、かつ、そのような所作として外部からも認識されるものというべきである。したがって、上記の起立斉唱行為は、その性質の点から見て、上告人の有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものとはいえず、上告人に対して上記の起立斉唱行為を求める本件職務命令は、上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない。」としている。
(H28 司法 第4問 イ)
国旗に向かって起立し国歌を斉唱する行為は、一般的、客観的に見て、特定の思想の表明として外部から認識されるものと評価すべきであり、卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為が職務命令にしたがって行われたものと外部から認識することも困難であって、校長の職務命令は、特定の思想の有無について告白することを強要する面がある。
国旗に向かって起立し国歌を斉唱する行為は、一般的、客観的に見て、特定の思想の表明として外部から認識されるものと評価すべきであり、卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為が職務命令にしたがって行われたものと外部から認識することも困難であって、校長の職務命令は、特定の思想の有無について告白することを強要する面がある。
(正答) ✕
(解説)
君が代起立斉唱事件判決(最判平23.5.30)は、㋐「本件職務命令当時、公立高等学校における卒業式等の式典において、国旗としての「日の丸」の掲揚及び国歌としての「君が代」の斉唱が広く行われていたことは周知の事実であって、学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は、一般的、客観的に見て、これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり、かつ、そのような所作として外部からも認識されるものというべきである。したがって、上記の起立斉唱行為は、その性質の点から見て、Xの有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものとはいえず、Xに対して上記の起立斉唱行為を求める本件職務命令は、上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない。」、㋑「上記の起立斉唱行為は、その外部からの認識という点から見ても、特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難であり、職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合には、上記のように評価することは一層困難であるといえるのであって、本件職務命令は、特定の思想を持つことを強制したり、これに反する思想を持つことを禁止したりするものではなく、特定の思想の有無について告白することを強要するものということもできない。」との理由から、「本件職務命令は、これらの観点において、個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできないというべきである。」と結論付けている。
君が代起立斉唱事件判決(最判平23.5.30)は、㋐「本件職務命令当時、公立高等学校における卒業式等の式典において、国旗としての「日の丸」の掲揚及び国歌としての「君が代」の斉唱が広く行われていたことは周知の事実であって、学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は、一般的、客観的に見て、これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり、かつ、そのような所作として外部からも認識されるものというべきである。したがって、上記の起立斉唱行為は、その性質の点から見て、Xの有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものとはいえず、Xに対して上記の起立斉唱行為を求める本件職務命令は、上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない。」、㋑「上記の起立斉唱行為は、その外部からの認識という点から見ても、特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難であり、職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合には、上記のように評価することは一層困難であるといえるのであって、本件職務命令は、特定の思想を持つことを強制したり、これに反する思想を持つことを禁止したりするものではなく、特定の思想の有無について告白することを強要するものということもできない。」との理由から、「本件職務命令は、これらの観点において、個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできないというべきである。」と結論付けている。
(H28 司法 第4問 ウ)
卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は、一般的、客観的に見て、国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であり、歴史観ないし世界観との関係で「日の丸」や「君が代」に敬意を表明することには応じ難いと考える者が上記行為を求められることは、思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。
卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は、一般的、客観的に見て、国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であり、歴史観ないし世界観との関係で「日の丸」や「君が代」に敬意を表明することには応じ難いと考える者が上記行為を求められることは、思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。
(正答) 〇
(解説)
君が代起立斉唱事件判決(最判平23.5.30)は、「本件職務命令は、これらの観点において、個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできないというべきである。」とする一方で、「上記の起立斉唱行為は、教員が日常担当する教科等や日常従事する事務の内容それ自体には含まれないものであって、一般的、客観的に見ても、国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であるということができる。そうすると、自らの歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となる「日の丸」や「君が代」に対して敬意を表明することには応じ難いと考える者が、これらに対する敬意の表明の要素を含む行為を求められることは、その行為が個人の歴史観ないし世界観に反する特定の思想の表明に係る行為そのものではないとはいえ、個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなり、その限りにおいて、その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。」としている。
君が代起立斉唱事件判決(最判平23.5.30)は、「本件職務命令は、これらの観点において、個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできないというべきである。」とする一方で、「上記の起立斉唱行為は、教員が日常担当する教科等や日常従事する事務の内容それ自体には含まれないものであって、一般的、客観的に見ても、国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であるということができる。そうすると、自らの歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となる「日の丸」や「君が代」に対して敬意を表明することには応じ難いと考える者が、これらに対する敬意の表明の要素を含む行為を求められることは、その行為が個人の歴史観ないし世界観に反する特定の思想の表明に係る行為そのものではないとはいえ、個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなり、その限りにおいて、その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。」としている。
(H29 共通 第4問 ウ)
公立高等学校の卒業式における国歌斉唱の際に起立斉唱する行為は、学校の儀礼的行事における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり、同校の校長が教諭に当該行為を命じても、当該教諭の思想・良心の自由を何ら制約するものではない。
公立高等学校の卒業式における国歌斉唱の際に起立斉唱する行為は、学校の儀礼的行事における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり、同校の校長が教諭に当該行為を命じても、当該教諭の思想・良心の自由を何ら制約するものではない。
(正答) ✕
(解説)
君が代起立斉唱事件判決(最判平23.5.30)は、「本件職務命令は、これらの観点において、個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできないというべきである。」とする一方で、「上記の起立斉唱行為は、教員が日常担当する教科等や日常従事する事務の内容それ自体には含まれないものであって、一般的、客観的に見ても、国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であるということができる。そうすると、自らの歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となる「日の丸」や「君が代」に対して敬意を表明することには応じ難いと考える者が、これらに対する敬意の表明の要素を含む行為を求められることは、その行為が個人の歴史観ないし世界観に反する特定の思想の表明に係る行為そのものではないとはいえ、個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなり、その限りにおいて、その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。」としている。
君が代起立斉唱事件判決(最判平23.5.30)は、「本件職務命令は、これらの観点において、個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできないというべきである。」とする一方で、「上記の起立斉唱行為は、教員が日常担当する教科等や日常従事する事務の内容それ自体には含まれないものであって、一般的、客観的に見ても、国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であるということができる。そうすると、自らの歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となる「日の丸」や「君が代」に対して敬意を表明することには応じ難いと考える者が、これらに対する敬意の表明の要素を含む行為を求められることは、その行為が個人の歴史観ないし世界観に反する特定の思想の表明に係る行為そのものではないとはいえ、個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなり、その限りにおいて、その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。」としている。
(R2 共通 第4問 イ)
公立学校の卒業式等の式典においてその教員に国旗掲揚の下での国歌斉唱の際に起立斉唱を求めることは、慣例上の儀礼的な所作を求めるものではあるが、自らの歴史観ないし世界観との関係で国歌や国旗に対する敬意の表明には応じ難いと考える者がこれらに対する敬意の表明の要素を含む行為を求められることは、その者の歴史観ないし世界観に由来する行動とは異なる外部的行動を求められることになり、その限りにおいて思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面がある。
公立学校の卒業式等の式典においてその教員に国旗掲揚の下での国歌斉唱の際に起立斉唱を求めることは、慣例上の儀礼的な所作を求めるものではあるが、自らの歴史観ないし世界観との関係で国歌や国旗に対する敬意の表明には応じ難いと考える者がこれらに対する敬意の表明の要素を含む行為を求められることは、その者の歴史観ないし世界観に由来する行動とは異なる外部的行動を求められることになり、その限りにおいて思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面がある。
(正答) 〇
(解説)
君が代起立斉唱事件判決(最判平23.5.30)は、「本件職務命令は、これらの観点において、個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできないというべきである。」とする一方で、「上記の起立斉唱行為は、教員が日常担当する教科等や日常従事する事務の内容それ自体には含まれないものであって、一般的、客観的に見ても、国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であるということができる。そうすると、自らの歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となる「日の丸」や「君が代」に対して敬意を表明することには応じ難いと考える者が、これらに対する敬意の表明の要素を含む行為を求められることは、その行為が個人の歴史観ないし世界観に反する特定の思想の表明に係る行為そのものではないとはいえ、個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなり、その限りにおいて、その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。」としている。
君が代起立斉唱事件判決(最判平23.5.30)は、「本件職務命令は、これらの観点において、個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできないというべきである。」とする一方で、「上記の起立斉唱行為は、教員が日常担当する教科等や日常従事する事務の内容それ自体には含まれないものであって、一般的、客観的に見ても、国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であるということができる。そうすると、自らの歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となる「日の丸」や「君が代」に対して敬意を表明することには応じ難いと考える者が、これらに対する敬意の表明の要素を含む行為を求められることは、その行為が個人の歴史観ないし世界観に反する特定の思想の表明に係る行為そのものではないとはいえ、個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなり、その限りにおいて、その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。」としている。
(R6 予備 第2問 イ)
職務上の命令に従って、卒業式等の式典において国歌斉唱の際に起立斉唱する行為は、特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価すべきであり、個人の歴史観ないし世界観に由来する行動と異なる外部的行為を求められることになるから、公立高校の教諭に対して卒業式の際に国旗に向かって起立し国歌を斉唱することを命ずる校長の職務命令は、思想及び良心の自由を間接的に制約するものである。
職務上の命令に従って、卒業式等の式典において国歌斉唱の際に起立斉唱する行為は、特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価すべきであり、個人の歴史観ないし世界観に由来する行動と異なる外部的行為を求められることになるから、公立高校の教諭に対して卒業式の際に国旗に向かって起立し国歌を斉唱することを命ずる校長の職務命令は、思想及び良心の自由を間接的に制約するものである。
(正答) ✕
(解説)
君が代起立斉唱事件判決(最判平23.5.30)は、「起立斉唱行為は、教員が日常担当する教科等や日常従事する事務の内容それ自体には含まれないものであって、一般的、客観的に見ても、国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であるということができる。そうすると、自らの歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となる「日の丸」や「君が代」に対して敬意を表明することには応じ難いと考える者が、これらに対する敬意の表明の要素を含む行為を求められることは、その行為が個人の歴史観ないし世界観に反する特定の思想の表明に係る行為そのものではないとはいえ、個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなり、その限りにおいて、その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。」としている。
しかし、本判決は、上記判示に先立ち、「上記の起立斉唱行為は、その外部からの認識という点から見ても、特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難であり、職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合には、上記のように評価することは一層困難であるといえる…。」と述べている。したがって、本肢における「職務上の命令に従って、卒業式等の式典において国歌斉唱の際に起立斉唱する行為は、特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価すべきであり」という部分は、誤っている。
しかし、本判決は、上記判示に先立ち、「上記の起立斉唱行為は、その外部からの認識という点から見ても、特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難であり、職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合には、上記のように評価することは一層困難であるといえる…。」と述べている。したがって、本肢における「職務上の命令に従って、卒業式等の式典において国歌斉唱の際に起立斉唱する行為は、特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価すべきであり」という部分は、誤っている。