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憲法 空知太神社事件 最大判平成22年1月20日
概要
〇市が市有地を神社物件のために無償で提供している行為の相手方は、氏子集団であり、これは憲法89条にいう「宗教上の組織若しくは団体」に当たる。
〇市が市有地を氏子集団が管理している神社物件のために無償で提供している行為は、憲法89条前段の禁止する公の財産の利用提供に当たり、ひいては憲法20条1項後段の禁止する宗教団体に対する特権の付与にも該当するから、違憲である。
〇市長において上記行為による違憲状態を解消するために他に選択することのできる合理的で現実的な手段が存在する場合には、市長が神社物件の撤去及び土地明渡請求という手段を講じていないことは、財産管理上直ちに違法との評価を受けるものではない。
〇市が市有地を氏子集団が管理している神社物件のために無償で提供している行為は、憲法89条前段の禁止する公の財産の利用提供に当たり、ひいては憲法20条1項後段の禁止する宗教団体に対する特権の付与にも該当するから、違憲である。
〇市長において上記行為による違憲状態を解消するために他に選択することのできる合理的で現実的な手段が存在する場合には、市長が神社物件の撤去及び土地明渡請求という手段を講じていないことは、財産管理上直ちに違法との評価を受けるものではない。
判例
事案:北海道砂川市は、市有地である本件土地を空知太連合町内会が所有し集会場等として使用していた建物の敷地として無償で使用させていた。本件建物の一角には神社の祠が設置され、建物の外壁には「神社」との表示が設けられており、さらに、本件土地上には、鳥居及び地神宮が設置されており、市は鳥居及び地神宮の敷地としても本件土地を空知太連合町内会に無償で提供していた。本件神社は、神社付近の住民らで構成される氏子集団によって管理・運営がなされており、初詣で、春祭り及び秋祭りという年3回の祭事が行われている。本件神社はもともと道有地上にあったが、その土地に小学校の建設計画が立てられたことから、神社は住民Aの所有地に移設され、住民Aの固定資産税負担を解消するため敷地は砂川町(当時)に寄附され、その後、周辺の土地を併せた敷地に空知太連合町内会により本件建物が新築され、神社の一部である祠は建物内の一角に移設され、鳥居が新設された。
砂川市の住民は、砂川市の市有地である本件土地の無償提供行為が政教分離原則に違反する行為であり、敷地の使用貸借契約を解除し本件各施設の撤去及び本件土地明渡しを請求しないことが違法に財産の管理を怠るものであるとして、地方自治法242条の2第1項3号に基づく怠る事実の違法確認を求めて出訴した。
砂川市の住民は、砂川市の市有地である本件土地の無償提供行為が政教分離原則に違反する行為であり、敷地の使用貸借契約を解除し本件各施設の撤去及び本件土地明渡しを請求しないことが違法に財産の管理を怠るものであるとして、地方自治法242条の2第1項3号に基づく怠る事実の違法確認を求めて出訴した。
判旨:①「憲法89条は、公の財産を宗教上の組織又は団体の使用、便益若しくは維持のため、その利用に供してはならない旨を定めている。その趣旨は、国家が宗教的に中立であることを要求するいわゆる政教分離の原則を、公の財産の利用提供等の財政的な側面において徹底させるところにあり、これによって、憲法20条1項後段の規定する宗教団体に対する特権の付与の禁止を財政的側面からも確保し、信教の自由の保障を一層確実なものにしようとしたものである。しかし、国家と宗教とのかかわり合いには種々の形態があり、およそ国又は地方公共団体が宗教との一切の関係を持つことが許されないというものではなく、憲法89条も、公の財産の利用提供等における宗教とのかかわり合いが、我が国の社会的、文化的諸条件に照らし、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるものと認められる場合に、これを許さないとするものと解される。国又は地方公共団体が国公有地を無償で宗教的施設の敷地としての用に供する行為は、一般的には、当該宗教的施設を設置する宗教団体等に対する便宜の供与として、憲法89条との抵触が問題となる行為であるといわなければならない。もっとも、国公有地が無償で宗教的施設の敷地としての用に供されているといっても、当該施設の性格や来歴、無償提供に至る経緯、利用の態様等には様々なものがあり得ることが容易に想定されるところである。例えば、一般的には宗教的施設としての性格を有する施設であっても、同時に歴史的、文化財的な建造物として保護の対象となるものであったり、観光資源、国際親善、地域の親睦の場などといった他の意義を有していたりすることも少なくなく、それらの文化的あるいは社会的な価値や意義に着目して当該施設が国公有地に設置されている場合もあり得よう。また、我が国においては、明治初期以来、一定の社寺領を国等に上知(上地)させ、官有地に編入し、又は寄附により受け入れるなどの施策が広く採られたこともあって、国公有地が無償で社寺等の敷地として供される事例が多数生じた。このような事例については、戦後、国有地につき「社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律」(昭和22年法律第53号)が公布され、公有地についても同法と同様に譲与等の処分をすべきものとする内務文部次官通牒が発出された上、これらによる譲与の申請期間が経過した後も、譲与、売払い、貸付け等の措置が講じられてきたが、それにもかかわらず、現在に至っても、なおそのような措置を講ずることができないまま社寺等の敷地となっている国公有地が相当数残存していることがうかがわれるところである。これらの事情のいかんは、当該利用提供行為が、一般人の目から見て特定の宗教に対する援助等と評価されるか否かに影響するものと考えられるから、政教分離原則との関係を考えるに当たっても、重要な考慮要素とされるべきものといえよう。そうすると、国公有地が無償で宗教的施設の敷地としての用に供されている状態が、前記の見地から、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えて憲法89条に違反するか否かを判断するに当たっては、当該宗教的施設の性格、当該土地が無償で当該施設の敷地としての用に供されるに至った経緯、当該無償提供の態様、これらに対する一般人の評価等、諸般の事情を考慮し、社会通念に照らして総合的に判断すべきものと解するのが相当である。
本件鳥居、地神宮、「神社」と表示された会館入口から祠に至る本件神社物件は、一体として神道の神社施設に当たるものと見るほかはない。また、本件神社において行われている諸行事は、地域の伝統的行事として親睦などの意義を有するとしても、神道の方式にのっとって行われているその態様にかんがみると、宗教的な意義の希薄な、単なる世俗的行事にすぎないということはできない。このように、本件神社物件は、神社神道のための施設であり、その行事も、このような施設の性格に沿って宗教的行事として行われているものということができる。
本件神社物件を管理し、上記のような祭事を行っているのは、本件利用提供行為の直接の相手方である本件町内会ではなく、本件氏子集団である。本件氏子集団は、前記のとおり、町内会に包摂される団体ではあるものの、町内会とは別に社会的に実在しているものと認められる。そして、この氏子集団は、宗教的行事等を行うことを主たる目的としている宗教団体であって、寄附を集めて本件神社の祭事を行っており、憲法89条にいう「宗教上の組織若しくは団体」に当たるものと解される。
しかし、本件氏子集団は、祭事に伴う建物使用の対価を町内会に支払うほかは、本件神社物件の設置に通常必要とされる対価を何ら支払うことなく、その設置に伴う便益を享受している。すなわち、本件利用提供行為は、その直接の効果として、氏子集団が神社を利用した宗教的活動を行うことを容易にしているものということができる。そうすると、本件利用提供行為は、市が、何らの対価を得ることなく本件各土地上に宗教的施設を設置させ、本件氏子集団においてこれを利用して宗教的活動を行うことを容易にさせているものといわざるを得ず、一般人の目から見て、市が特定の宗教に対して特別の便益を提供し、これを援助していると評価されてもやむを得ないものである。前記事実関係等によれば、本件利用提供行為は、もともとは小学校敷地の拡張に協力した用地提供者に報いるという世俗的、公共的な目的から始まったもので、本件神社を特別に保護、援助するという目的によるものではなかったことが認められるものの、明らかな宗教的施設といわざるを得ない本件神社物件の性格、これに対し長期間にわたり継続的に便益を提供し続けていることなどの本件利用提供行為の具体的態様等にかんがみると、本件において、当初の動機、目的は上記評価を左右するものではない。以上のような事情を考慮し、社会通念に照らして総合的に判断すると、本件利用提供行為は、市と本件神社ないし神道とのかかわり合いが、我が国の社会的、文化的諸条件に照らし、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるものとして、憲法89条の禁止する公の財産の利用提供に当たり、ひいては憲法20条1項後段の禁止する宗教団体に対する特権の付与にも該当すると解するのが相当である。」
②「本件は、被上告人らが地方自治法242条の2第1項3号に基づいて提起した住民訴訟であり、被上告人らは、前記のとおり政教分離原則との関係で問題とされざるを得ない状態となっている本件各土地について、上告人がそのような状態を解消するため使用貸借契約を解除し、神社施設の撤去を求める措置を執らないことが財産管理上違法であると主張する。
②「本件は、被上告人らが地方自治法242条の2第1項3号に基づいて提起した住民訴訟であり、被上告人らは、前記のとおり政教分離原則との関係で問題とされざるを得ない状態となっている本件各土地について、上告人がそのような状態を解消するため使用貸借契約を解除し、神社施設の撤去を求める措置を執らないことが財産管理上違法であると主張する。
本件利用提供行為の現状が違憲であることは既に述べたとおりである。しかしながら、これを違憲とする理由は、判示のような施設の下に一定の行事を行っている本件氏子集団に対し、長期にわたって無償で土地を提供していることによるものであって、このような違憲状態の解消には、神社施設を撤去し土地を明け渡す以外にも適切な手段があり得るというべきである。例えば、戦前に国公有に帰した多くの社寺境内地について戦後に行われた処分等と同様に、本件土地…の全部又は一部を譲与し、有償で譲渡し、又は適正な時価で貸し付ける等の方法によっても上記の違憲性を解消することができる。そして、上告人には、本件各土地、本件建物及び本件神社物件の現況、違憲性を解消するための措置が利用者に与える影響、関係者の意向、実行の難易等、諸般の事情を考慮に入れて、相当と認められる方法を選択する裁量権があると解される。本件利用提供行為に至った事情は、それが違憲であることを否定するような事情として評価することまではできないとしても、解消手段の選択においては十分に考慮されるべきであろう。本件利用提供行為が開始された経緯や本件氏子集団による本件神社物件を利用した祭事がごく平穏な態様で行われてきていること等を考慮すると、上告人において直接的な手段に訴えて直ちに本件神社物件を撤去させるべきものとすることは、神社敷地として使用することを前提に土地を借り受けている本件町内会の信頼を害するのみならず、地域住民らによって守り伝えられてきた宗教的活動を著しく困難なものにし、氏子集団の構成員の信教の自由に重大な不利益を及ぼすものとなることは自明であるといわざるを得ない。さらに、上記の他の手段のうちには、市議会の議決を要件とするものなども含まれているが、そのような議決が適法に得られる見込みの有無も考慮する必要がある。これらの事情に照らし、上告人において他に選択することのできる合理的で現実的な手段が存在する場合には、上告人が本件神社物件の撤去及び土地明渡請求という手段を講じていないことは、財産管理上直ちに違法との評価を受けるものではない。すなわち、それが違法とされるのは、上記のような他の手段の存在を考慮しても、なお上告人において上記撤去及び土地明渡請求をしないことが上告人の財産管理上の裁量権を逸脱又は濫用するものと評価される場合に限られるものと解するのが相当である。
本件において、当事者は、上記のような観点から、本件利用提供行為の違憲性を解消するための他の手段が存在するか否かに関する主張をしておらず、原審も当事者に対してそのような手段の有無に関し釈明権を行使した形跡はうかがわれない。しかし、本件利用提供行為の違憲性を解消するための他の手段があり得ることは、当事者の主張の有無にかかわらず明らかというべきである。また、原審は、本件と併行して、本件と当事者がほぼ共通する市内の別の神社(T神社)をめぐる住民訴訟を審理しており、同訴訟においては、市有地上に神社施設が存在する状態を解消するため、市が、神社敷地として無償で使用させていた市有地を町内会に譲与したことの憲法適合性が争われていたところ、第1、2審とも、それを合憲と判断し、当裁判所もそれを合憲と判断するものである(最高裁平成19年(行ツ)第334号)。原審は、上記訴訟の審理を通じて、本件においてもそのような他の手段が存在する可能性があり、上告人がこうした手段を講ずる場合があることを職務上知っていたものである。
そうすると、原審が上告人において本件神社物件の撤去及び土地明渡請求をすることを怠る事実を違法と判断する以上は、原審において、本件利用提供行為の違憲性を解消するための他の合理的で現実的な手段が存在するか否かについて適切に審理判断するか、当事者に対して釈明権を行使する必要があったというべきである。原審が、この点につき何ら審理判断せず、上記釈明権を行使することもないまま、上記の怠る事実を違法と判断したことには、怠る事実の適否に関する審理を尽くさなかった結果、法令の解釈適用を誤ったか、釈明権の行使を怠った違法があるものというほかない。」
補足意見:「私は、多数意見に賛成するが、本件利用提供行為が政教分離原則に違反すると考えられることにつき、以下若干の補足をしておくこととしたい。
1 国又は公共団体が宗教に関係する何らかの活動(不作為をも含む。)をする場合に、それが日本国憲法の定める政教分離原則に違反しないかどうかを判断するに際しての審査基準として、過去の当審判例が採用してきたのは、いわゆる目的効果基準であって、本件においてもこの事実を無視するわけには行かない。ただ、この基準の採用の是非及びその適用の仕方については、当審の従来の判例に反対する見解も学説中にはかなり根強く存在し、また、過去の当審判決においても一度ならず反対意見が述べられてきたところでもあるから、このことを踏まえた上で、現在の時点でこの問題をどう考えるかについては、改めて慎重な検討をしておかなければならない。
この基準を採用することへの批判としては、周知のように、当審においてこの基準が最初に採用された「津地鎮祭訴訟判決」(最高裁昭和46年(行ツ)第69号同52年7月13日大法廷判決・民集31巻4号533頁)における5裁判官の反対意見と並び、「愛媛玉串料訴訟判決」(最高裁平成4年(行ツ)第156号同9年4月2日大法廷判決・民集51巻4号1673頁)における高橋、尾崎両裁判官の意見がある。とりわけ、尾崎意見における指摘、すなわち、日本国憲法の政教分離規定の趣旨につき津地鎮祭訴訟判決において多数意見が出発点とした「憲法は、信教の自由を無条件に保障し、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けたものであり、これを設けるに当たっては、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたものである」という考え方を前提とすれば、「国家と宗教との完全分離を原則とし、完全分離が不可能であり、かつ、分離に固執すると不合理な結果を招く場合に限って、例外的に国家と宗教とのかかわり合いが憲法上許容されるとすべきもの」と考えられる、という指摘については、私もまた、これが本来筋の通った理論的帰結であると考える。これに対して、これまでの当審判例の多数意見が採用してきた上記の目的効果基準によれば、憲法上の政教分離原則は「国家が宗教とのかかわり合いを持つことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果に鑑み、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超える場合に(初めて)これを許さないとするもの」であるということになるが(括弧内は藤田による補足)、このように、いわば原則と例外を逆転させたかにも見える結論を導くについて、従来の多数意見は必ずしも充分な説明をしておらず、そこには論理の飛躍がある、という上記の尾崎意見の指摘には、首肯できるものがあるように思われる。
ただ、目的効果基準の採用に対するこのような反対意見にあっても、国家と宗教の完全な分離に対する例外が許容されること自体が全く否定されるものではないのであり、また、これらの見解において例外が認められる「完全分離が不可能であり、かつ分離に固執すると不合理な結果を招く場合」に当たるか否かを検討するに際して、目的・効果についての考慮を全くせずして最終的判断を下せるともいい切れないように思われるのであって、問題は結局のところ、「そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超える」か否かの判断に際しての「国家の宗教的中立性」の評価に関する基本的姿勢ないし出発点の如何に懸ることになるともいうことができよう。このように考えるならば、仮に、理論的には上記意見に理由があると考えるとしても、本件において、敢えて目的効果基準の採用それ自体に対しこれを全面的に否定するまでの必要は無いものと考える。但し、ここにいう目的効果基準の具体的な内容あるいはその適用の在り方については、慎重な配慮が必要なのであって、当該事案の内容を十分比較検討することなく、過去における当審判例上の文言を金科玉条として引用し、機械的に結論を導くようなことをしてはならない。こういった見地から、本件において注意しなければならないのは、例えば以下のような点である。
2 本件において合憲性が問われているのは、多数意見にも述べられているように、取り立てて宗教外の意義を持つものではない純粋の神道施設につき、地方公共団体が公有地を単純にその敷地として提供しているという事実である。私の見るところ、過去の当審判例上、目的効果基準が機能せしめられてきたのは、問題となる行為等においていわば「宗教性」と「世俗性」とが同居しておりその優劣が微妙であるときに、そのどちらを重視するかの決定に際してであって(例えば、津地鎮祭訴訟、箕面忠魂碑訴訟等は、少なくとも多数意見の判断によれば、正にこのようなケースであった。)、明確に宗教性のみを持った行為につき、更に、それが如何なる目的をもって行われたかが問われる場面においてではなかったということができる(例えば、公的な立場で寺社に参拝あるいは寄進をしながら、それは、専ら国家公安・国民の安全を願う目的によるものであって、当該宗教を特に優遇しようという趣旨からではないから、憲法にいう「宗教的活動」ではない、というような弁明を行うことは、上記目的効果基準の下においても到底許されるものとはいえない。例えば愛媛玉串料訴訟判決は、このことを示すものであるともいえよう。)。
本件の場合、原審判決及び多数意見が指摘するとおり、本件における神社施設は、これといった文化財や史跡等としての世俗的意義を有するものではなく、一義的に宗教施設(神道施設)であって、そこで行われる行事もまた宗教的な行事であることは明らかである(五穀豊穣等を祈るというのは、正に神事の目的それ自体であって、これをもって「世俗的目的」とすることは、すなわち「神道は宗教に非ず」というに等しい。)。従って、本件利用提供行為が専ら特定の純粋な宗教施設及び行事(要するに「神社」)を利する結果をもたらしていること自体は、これを否定することができないのであって、地鎮祭における起工式(津地鎮祭訴訟)、忠魂碑の移設のための代替地貸与並びに慰霊祭への出席行為(箕面忠魂碑訴訟)、さらには地蔵像の移設のための市有地提供行為等(大阪地蔵像訴訟)とは、状況が明らかに異なるといわなければならない(これらのケースにおいては、少なくとも多数説は、地鎮祭、忠魂碑、地蔵像等の純粋な宗教性を否定し、何らかの意味での世俗性を認めることから、それぞれ合憲判断をしたものである。)。その意味においては、本件における憲法問題は、本来、目的効果基準の適用の可否が問われる以前の問題であるというべきである。
3 もっとも、原審認定事実等によれば、本件神社は、それ自体としては明らかに純粋な神道施設であると認められるものの、他方において、その外観、日々の宗教的活動の態様等からして、さほど宗教施設としての存在感の大きいものであるわけではなく、それゆえにこそ、市においてもまた、さして憲法上の疑義を抱くこともなく本件利用提供行為を続けてきたのであるし、また、被上告人らが問題提起をするまでは、他の市民の間において殊更にその違憲性が問題視されることも無かった、というのが実態であったようにもうかがわれる。従って、仮にこの点を重視するならば、少なくとも、本件利用提供行為が、直ちに他の宗教あるいはその信者らに対する圧迫ないし脅威となるとまではいえず(現に、例えば、本件氏子集団の役員らはいずれも仏教徒であることが認定されている。)、これをもって敢えて憲法違反を問うまでのことはないのではないかという疑問も抱かれ得るところであろう。そして、全国において少なからず存在すると考えられる公有地上の神社施設につき、かなりの数のものは、正にこれと類似した状況にあるのではないか、とも推測されるのである。このように、本件における固有の問題は、一義的に特定の宗教のための施設であれば(すなわち問題とすべき「世俗性」が認められない以上)地域におけるその存在感がさして大きなものではない(あるいはむしろ希薄ですらある)ような場合であっても、そのような施設に対して行われる地方公共団体の土地利用提供行為をもって、当然に憲法89条違反といい得るか、という点にあるというべきであろう。
ところで、上記のような状況は、その教義上排他性の比較的希薄な伝統的神道の特色及び宗教意識の比較的薄い国民性等によってもたらされている面が強いように思われるが、いうまでもなく、政教分離の問題は、対象となる宗教の教義の内容如何とは明確に区別されるべき問題であるし、また、ある宗教を信じあるいは受容している国民の数ないし割合が多いか否かが政教分離の問題と結び付けられるべきものではないことも、明らかであるといわなければならない。憲法89条が、過去の我が国における国家神道下で他宗教が弾圧された現実の体験に鑑み、個々人の信教の自由の保障を全うするため政教分離を制度的に(制度として)保障したとされる趣旨及び経緯を考えるとき、同条の定める政教分離原則に違反するか否かの問題は、必ずしも、問題とされている行為によって個々人の信教の自由が現実に侵害されているか否かの事実によってのみ判断されるべきものではないのであって、多数意見が本件利用提供行為につき「一般人の目から見て、市が特定の宗教に対して特別の便益を提供し、これを援助していると評価されてもやむを得ないものである」と述べるのは、このような意味において正当というべきである。
4 なお、本件において違憲性が問われているのは、直接には、市が公有地上にある本件神社施設を撤去しないという不作為についてである(当初市が神社施設の存する本件土地を取得したこと自体が違憲であるというならば、その行為自体が無効であって、そもそも本件土地は公有地とは認められないということにもなりかねないが、被上告人(原告)らはこのような主張をするものではない。)。この場合、その不作為を直ちに解消することが期待し得ないような特別の事情(例えば、施設の撤去自体が他方で信教の自由に極めて重大な打撃を与える結果となることが見込まれるとか、敷地の民有化に向け可能な限りの努力をしてきたものの、歴史的経緯等種々の原因から未だ成功していない等々の事情が考えられようか。)がある場合に、現に公有地上に神社施設が存在するという事実が残っていること自体をもって直ちに違憲というべきか否かは、なお検討の余地がある問題であるといえなくはなかろう。しかし、本件において、上告人(被告)はこのような特別の事情の存在については一切主張・立証するところがなく、むしろ、そういった事情の存在の有無を問うまでもなく本件利用提供行為は合憲であるとの前提に立っていることは明らかであるから、この点については、原審の釈明義務違反を問うまでもなく、多数意見のように、本件利用提供行為が憲法89条に違反すると判断されるのもやむを得ないところといわなければならない。」(藤田宙靖裁判官の補足意見)
本件において、当事者は、上記のような観点から、本件利用提供行為の違憲性を解消するための他の手段が存在するか否かに関する主張をしておらず、原審も当事者に対してそのような手段の有無に関し釈明権を行使した形跡はうかがわれない。しかし、本件利用提供行為の違憲性を解消するための他の手段があり得ることは、当事者の主張の有無にかかわらず明らかというべきである。また、原審は、本件と併行して、本件と当事者がほぼ共通する市内の別の神社(T神社)をめぐる住民訴訟を審理しており、同訴訟においては、市有地上に神社施設が存在する状態を解消するため、市が、神社敷地として無償で使用させていた市有地を町内会に譲与したことの憲法適合性が争われていたところ、第1、2審とも、それを合憲と判断し、当裁判所もそれを合憲と判断するものである(最高裁平成19年(行ツ)第334号)。原審は、上記訴訟の審理を通じて、本件においてもそのような他の手段が存在する可能性があり、上告人がこうした手段を講ずる場合があることを職務上知っていたものである。
そうすると、原審が上告人において本件神社物件の撤去及び土地明渡請求をすることを怠る事実を違法と判断する以上は、原審において、本件利用提供行為の違憲性を解消するための他の合理的で現実的な手段が存在するか否かについて適切に審理判断するか、当事者に対して釈明権を行使する必要があったというべきである。原審が、この点につき何ら審理判断せず、上記釈明権を行使することもないまま、上記の怠る事実を違法と判断したことには、怠る事実の適否に関する審理を尽くさなかった結果、法令の解釈適用を誤ったか、釈明権の行使を怠った違法があるものというほかない。」
補足意見:「私は、多数意見に賛成するが、本件利用提供行為が政教分離原則に違反すると考えられることにつき、以下若干の補足をしておくこととしたい。
1 国又は公共団体が宗教に関係する何らかの活動(不作為をも含む。)をする場合に、それが日本国憲法の定める政教分離原則に違反しないかどうかを判断するに際しての審査基準として、過去の当審判例が採用してきたのは、いわゆる目的効果基準であって、本件においてもこの事実を無視するわけには行かない。ただ、この基準の採用の是非及びその適用の仕方については、当審の従来の判例に反対する見解も学説中にはかなり根強く存在し、また、過去の当審判決においても一度ならず反対意見が述べられてきたところでもあるから、このことを踏まえた上で、現在の時点でこの問題をどう考えるかについては、改めて慎重な検討をしておかなければならない。
この基準を採用することへの批判としては、周知のように、当審においてこの基準が最初に採用された「津地鎮祭訴訟判決」(最高裁昭和46年(行ツ)第69号同52年7月13日大法廷判決・民集31巻4号533頁)における5裁判官の反対意見と並び、「愛媛玉串料訴訟判決」(最高裁平成4年(行ツ)第156号同9年4月2日大法廷判決・民集51巻4号1673頁)における高橋、尾崎両裁判官の意見がある。とりわけ、尾崎意見における指摘、すなわち、日本国憲法の政教分離規定の趣旨につき津地鎮祭訴訟判決において多数意見が出発点とした「憲法は、信教の自由を無条件に保障し、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けたものであり、これを設けるに当たっては、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたものである」という考え方を前提とすれば、「国家と宗教との完全分離を原則とし、完全分離が不可能であり、かつ、分離に固執すると不合理な結果を招く場合に限って、例外的に国家と宗教とのかかわり合いが憲法上許容されるとすべきもの」と考えられる、という指摘については、私もまた、これが本来筋の通った理論的帰結であると考える。これに対して、これまでの当審判例の多数意見が採用してきた上記の目的効果基準によれば、憲法上の政教分離原則は「国家が宗教とのかかわり合いを持つことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果に鑑み、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超える場合に(初めて)これを許さないとするもの」であるということになるが(括弧内は藤田による補足)、このように、いわば原則と例外を逆転させたかにも見える結論を導くについて、従来の多数意見は必ずしも充分な説明をしておらず、そこには論理の飛躍がある、という上記の尾崎意見の指摘には、首肯できるものがあるように思われる。
ただ、目的効果基準の採用に対するこのような反対意見にあっても、国家と宗教の完全な分離に対する例外が許容されること自体が全く否定されるものではないのであり、また、これらの見解において例外が認められる「完全分離が不可能であり、かつ分離に固執すると不合理な結果を招く場合」に当たるか否かを検討するに際して、目的・効果についての考慮を全くせずして最終的判断を下せるともいい切れないように思われるのであって、問題は結局のところ、「そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超える」か否かの判断に際しての「国家の宗教的中立性」の評価に関する基本的姿勢ないし出発点の如何に懸ることになるともいうことができよう。このように考えるならば、仮に、理論的には上記意見に理由があると考えるとしても、本件において、敢えて目的効果基準の採用それ自体に対しこれを全面的に否定するまでの必要は無いものと考える。但し、ここにいう目的効果基準の具体的な内容あるいはその適用の在り方については、慎重な配慮が必要なのであって、当該事案の内容を十分比較検討することなく、過去における当審判例上の文言を金科玉条として引用し、機械的に結論を導くようなことをしてはならない。こういった見地から、本件において注意しなければならないのは、例えば以下のような点である。
2 本件において合憲性が問われているのは、多数意見にも述べられているように、取り立てて宗教外の意義を持つものではない純粋の神道施設につき、地方公共団体が公有地を単純にその敷地として提供しているという事実である。私の見るところ、過去の当審判例上、目的効果基準が機能せしめられてきたのは、問題となる行為等においていわば「宗教性」と「世俗性」とが同居しておりその優劣が微妙であるときに、そのどちらを重視するかの決定に際してであって(例えば、津地鎮祭訴訟、箕面忠魂碑訴訟等は、少なくとも多数意見の判断によれば、正にこのようなケースであった。)、明確に宗教性のみを持った行為につき、更に、それが如何なる目的をもって行われたかが問われる場面においてではなかったということができる(例えば、公的な立場で寺社に参拝あるいは寄進をしながら、それは、専ら国家公安・国民の安全を願う目的によるものであって、当該宗教を特に優遇しようという趣旨からではないから、憲法にいう「宗教的活動」ではない、というような弁明を行うことは、上記目的効果基準の下においても到底許されるものとはいえない。例えば愛媛玉串料訴訟判決は、このことを示すものであるともいえよう。)。
本件の場合、原審判決及び多数意見が指摘するとおり、本件における神社施設は、これといった文化財や史跡等としての世俗的意義を有するものではなく、一義的に宗教施設(神道施設)であって、そこで行われる行事もまた宗教的な行事であることは明らかである(五穀豊穣等を祈るというのは、正に神事の目的それ自体であって、これをもって「世俗的目的」とすることは、すなわち「神道は宗教に非ず」というに等しい。)。従って、本件利用提供行為が専ら特定の純粋な宗教施設及び行事(要するに「神社」)を利する結果をもたらしていること自体は、これを否定することができないのであって、地鎮祭における起工式(津地鎮祭訴訟)、忠魂碑の移設のための代替地貸与並びに慰霊祭への出席行為(箕面忠魂碑訴訟)、さらには地蔵像の移設のための市有地提供行為等(大阪地蔵像訴訟)とは、状況が明らかに異なるといわなければならない(これらのケースにおいては、少なくとも多数説は、地鎮祭、忠魂碑、地蔵像等の純粋な宗教性を否定し、何らかの意味での世俗性を認めることから、それぞれ合憲判断をしたものである。)。その意味においては、本件における憲法問題は、本来、目的効果基準の適用の可否が問われる以前の問題であるというべきである。
3 もっとも、原審認定事実等によれば、本件神社は、それ自体としては明らかに純粋な神道施設であると認められるものの、他方において、その外観、日々の宗教的活動の態様等からして、さほど宗教施設としての存在感の大きいものであるわけではなく、それゆえにこそ、市においてもまた、さして憲法上の疑義を抱くこともなく本件利用提供行為を続けてきたのであるし、また、被上告人らが問題提起をするまでは、他の市民の間において殊更にその違憲性が問題視されることも無かった、というのが実態であったようにもうかがわれる。従って、仮にこの点を重視するならば、少なくとも、本件利用提供行為が、直ちに他の宗教あるいはその信者らに対する圧迫ないし脅威となるとまではいえず(現に、例えば、本件氏子集団の役員らはいずれも仏教徒であることが認定されている。)、これをもって敢えて憲法違反を問うまでのことはないのではないかという疑問も抱かれ得るところであろう。そして、全国において少なからず存在すると考えられる公有地上の神社施設につき、かなりの数のものは、正にこれと類似した状況にあるのではないか、とも推測されるのである。このように、本件における固有の問題は、一義的に特定の宗教のための施設であれば(すなわち問題とすべき「世俗性」が認められない以上)地域におけるその存在感がさして大きなものではない(あるいはむしろ希薄ですらある)ような場合であっても、そのような施設に対して行われる地方公共団体の土地利用提供行為をもって、当然に憲法89条違反といい得るか、という点にあるというべきであろう。
ところで、上記のような状況は、その教義上排他性の比較的希薄な伝統的神道の特色及び宗教意識の比較的薄い国民性等によってもたらされている面が強いように思われるが、いうまでもなく、政教分離の問題は、対象となる宗教の教義の内容如何とは明確に区別されるべき問題であるし、また、ある宗教を信じあるいは受容している国民の数ないし割合が多いか否かが政教分離の問題と結び付けられるべきものではないことも、明らかであるといわなければならない。憲法89条が、過去の我が国における国家神道下で他宗教が弾圧された現実の体験に鑑み、個々人の信教の自由の保障を全うするため政教分離を制度的に(制度として)保障したとされる趣旨及び経緯を考えるとき、同条の定める政教分離原則に違反するか否かの問題は、必ずしも、問題とされている行為によって個々人の信教の自由が現実に侵害されているか否かの事実によってのみ判断されるべきものではないのであって、多数意見が本件利用提供行為につき「一般人の目から見て、市が特定の宗教に対して特別の便益を提供し、これを援助していると評価されてもやむを得ないものである」と述べるのは、このような意味において正当というべきである。
4 なお、本件において違憲性が問われているのは、直接には、市が公有地上にある本件神社施設を撤去しないという不作為についてである(当初市が神社施設の存する本件土地を取得したこと自体が違憲であるというならば、その行為自体が無効であって、そもそも本件土地は公有地とは認められないということにもなりかねないが、被上告人(原告)らはこのような主張をするものではない。)。この場合、その不作為を直ちに解消することが期待し得ないような特別の事情(例えば、施設の撤去自体が他方で信教の自由に極めて重大な打撃を与える結果となることが見込まれるとか、敷地の民有化に向け可能な限りの努力をしてきたものの、歴史的経緯等種々の原因から未だ成功していない等々の事情が考えられようか。)がある場合に、現に公有地上に神社施設が存在するという事実が残っていること自体をもって直ちに違憲というべきか否かは、なお検討の余地がある問題であるといえなくはなかろう。しかし、本件において、上告人(被告)はこのような特別の事情の存在については一切主張・立証するところがなく、むしろ、そういった事情の存在の有無を問うまでもなく本件利用提供行為は合憲であるとの前提に立っていることは明らかであるから、この点については、原審の釈明義務違反を問うまでもなく、多数意見のように、本件利用提供行為が憲法89条に違反すると判断されるのもやむを得ないところといわなければならない。」(藤田宙靖裁判官の補足意見)
過去問・解説
(H24 司法 第2問 ア)
国公有地が無償で宗教的施設の敷地としての用に供されるといっても、当該施設の性格や来歴、無償提供に至る経緯、利用の態様には様々なものがあり得るのであって、これらの事情のいかんが政教分離原則との関係を考えるに当たって重要な考慮要素とされるべきである。
国公有地が無償で宗教的施設の敷地としての用に供されるといっても、当該施設の性格や来歴、無償提供に至る経緯、利用の態様には様々なものがあり得るのであって、これらの事情のいかんが政教分離原則との関係を考えるに当たって重要な考慮要素とされるべきである。
(正答) 〇
(解説)
空知太事件判決(最大判平22.1.20)は、「国公有地が無償で宗教的施設の敷地としての用に供されているといっても、当該施設の性格や来歴、無償提供に至る経緯、利用の態様等には様々なものがあり得ることが容易に想定されるところである。…これらの事情のいかんは、当該利用提供行為が、一般人の目から見て特定の宗教に対する援助等と評価されるか否かに影響するものと考えられるから、政教分離原則との関係を考えるに当たっても、重要な考慮要素とされるべきものといえよう。」としている。
空知太事件判決(最大判平22.1.20)は、「国公有地が無償で宗教的施設の敷地としての用に供されているといっても、当該施設の性格や来歴、無償提供に至る経緯、利用の態様等には様々なものがあり得ることが容易に想定されるところである。…これらの事情のいかんは、当該利用提供行為が、一般人の目から見て特定の宗教に対する援助等と評価されるか否かに影響するものと考えられるから、政教分離原則との関係を考えるに当たっても、重要な考慮要素とされるべきものといえよう。」としている。
(H24 司法 第2問 イ)
無償提供された国公有地上に存在する宗教的施設の宗教性を判断するに当たっては、当該宗教的施設に対する一般人の評価を抽象的に観念するのではなく、当該施設が存在する地元住民の一般的評価を検討することが重要である。
無償提供された国公有地上に存在する宗教的施設の宗教性を判断するに当たっては、当該宗教的施設に対する一般人の評価を抽象的に観念するのではなく、当該施設が存在する地元住民の一般的評価を検討することが重要である。
(正答) ✕
(解説)
空知太事件判決(最大判平22.1.20)は、「そうすると、国公有地が無償で宗教的施設の敷地としての用に供されている状態が、前記の見地から、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えて憲法89条に違反するか否かを判断するに当たっては、当該宗教的施設の性格、当該土地が無償で当該施設の敷地としての用に供されるに至った経緯、当該無償提供の態様、これらに対する一般人の評価等、諸般の事情を考慮し、社会通念に照らして総合的に判断すべきものと解するのが相当である。」としているから、当該宗教的施設が存在する地元住民の一般的評価ではなく、「一般人の評価」を検討することが重要である。
空知太事件判決(最大判平22.1.20)は、「そうすると、国公有地が無償で宗教的施設の敷地としての用に供されている状態が、前記の見地から、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えて憲法89条に違反するか否かを判断するに当たっては、当該宗教的施設の性格、当該土地が無償で当該施設の敷地としての用に供されるに至った経緯、当該無償提供の態様、これらに対する一般人の評価等、諸般の事情を考慮し、社会通念に照らして総合的に判断すべきものと解するのが相当である。」としているから、当該宗教的施設が存在する地元住民の一般的評価ではなく、「一般人の評価」を検討することが重要である。
(H24 司法 第2問 ウ)
宗教的施設に対する国公有地の無償提供が憲法第89条に違反し違憲と判断される場合には、このような違憲状態を解消するための手段として、使用貸借契約の解除までは必要ないが、当該土地上に存在する宗教的施設の撤去が必要である。
宗教的施設に対する国公有地の無償提供が憲法第89条に違反し違憲と判断される場合には、このような違憲状態を解消するための手段として、使用貸借契約の解除までは必要ないが、当該土地上に存在する宗教的施設の撤去が必要である。
(正答) ✕
(解説)
空知太事件判決(最大判平22.1.20)は、「本件は、被上告人らが地方自治法242条の2第1項3号に基づいて提起した住民訴訟であり、被上告人らは、前記のとおり政教分離原則との関係で問題とされざるを得ない状態となっている本件各土地について、上告人がそのような状態を解消するため使用貸借契約を解除し、神社施設の撤去を求める措置を執らないことが財産管理上違法であると主張する。…しかしながら、これを違憲とする理由は、判示のような施設の下に一定の行事を行っている本件氏子集団に対し、長期にわたって無償で土地を提供していることによるものであって、このような違憲状態の解消には、神社施設を撤去し土地を明け渡す以外にも適切な手段があり得るというべきである。」としている。
空知太事件判決(最大判平22.1.20)は、「本件は、被上告人らが地方自治法242条の2第1項3号に基づいて提起した住民訴訟であり、被上告人らは、前記のとおり政教分離原則との関係で問題とされざるを得ない状態となっている本件各土地について、上告人がそのような状態を解消するため使用貸借契約を解除し、神社施設の撤去を求める措置を執らないことが財産管理上違法であると主張する。…しかしながら、これを違憲とする理由は、判示のような施設の下に一定の行事を行っている本件氏子集団に対し、長期にわたって無償で土地を提供していることによるものであって、このような違憲状態の解消には、神社施設を撤去し土地を明け渡す以外にも適切な手段があり得るというべきである。」としている。
(H29 司法 第5問 ア)
国公有地が特定の宗教的施設の敷地として無償提供された場合に政教分離原則に違反するか否かを判断するに当たり、当該宗教的施設の性格、当該無償提供に至る経緯及びその提供の態様については考慮に入れるべきであるが、これらに対する一般人の評価についてまで考慮に入れることは、多数者による少数者の宗教的抑圧につながるおそれがあるので相当ではない。
国公有地が特定の宗教的施設の敷地として無償提供された場合に政教分離原則に違反するか否かを判断するに当たり、当該宗教的施設の性格、当該無償提供に至る経緯及びその提供の態様については考慮に入れるべきであるが、これらに対する一般人の評価についてまで考慮に入れることは、多数者による少数者の宗教的抑圧につながるおそれがあるので相当ではない。
(正答) ✕
(解説)
空知太神社事件判決(最大判平22.1.20)は、「国公有地が無償で宗教的施設の敷地としての用に供されている状態が、前記の見地から、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えて憲法89条に違反するか否かを判断するに当たっては、当該宗教的施設の性格、当該土地が無償で当該施設の敷地としての用に供されるに至った経緯、当該無償提供の態様、これらに対する一般人の評価等、諸般の事情を考慮し、社会通念に照らして総合的に判断すべきものと解するのが相当である。」としているから、「一般人の評価」も考慮に入れることとなる。
空知太神社事件判決(最大判平22.1.20)は、「国公有地が無償で宗教的施設の敷地としての用に供されている状態が、前記の見地から、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えて憲法89条に違反するか否かを判断するに当たっては、当該宗教的施設の性格、当該土地が無償で当該施設の敷地としての用に供されるに至った経緯、当該無償提供の態様、これらに対する一般人の評価等、諸般の事情を考慮し、社会通念に照らして総合的に判断すべきものと解するのが相当である。」としているから、「一般人の評価」も考慮に入れることとなる。
(R2 司法 第16問 イ)
最高裁判所は、市有地を無償で神社施設の敷地利用に供していた行為が政教分離原則に違反するかが問われた空知太神社訴訟(最大判平成22年1月20日)において、同じ市による別の神社敷地の譲与行為に対する合憲判断と異なり、当該事案における敷地利用提供行為については憲法第89条及び第20条第1項後段に違反すると判示した。
最高裁判所は、市有地を無償で神社施設の敷地利用に供していた行為が政教分離原則に違反するかが問われた空知太神社訴訟(最大判平成22年1月20日)において、同じ市による別の神社敷地の譲与行為に対する合憲判断と異なり、当該事案における敷地利用提供行為については憲法第89条及び第20条第1項後段に違反すると判示した。
(正答) 〇
(解説)
富平神社事件判決(最大判平22.1.20)は、市が町内会に対し無償で神社施設の敷地としての利用に供していた市有地を同町内会に譲与したことについて、憲法20条3項及び憲法89条前段に違反しないと判断している。
これに対し、空知太神社事件判決(最大判平成22.1.20)は、市が市有地を無償で神社施設の敷地利用に供していた行為について、憲法89条前段及び憲法20条1項後段に違反すると判断している。
富平神社事件判決(最大判平22.1.20)は、市が町内会に対し無償で神社施設の敷地としての利用に供していた市有地を同町内会に譲与したことについて、憲法20条3項及び憲法89条前段に違反しないと判断している。
これに対し、空知太神社事件判決(最大判平成22.1.20)は、市が市有地を無償で神社施設の敷地利用に供していた行為について、憲法89条前段及び憲法20条1項後段に違反すると判断している。
(R6 司法 第4問 ウ)
国公有地が無償で宗教的施設の敷地としての用に供されている状態が、政教分離原則に反するか否かを判断するに当たっては、当該宗教的施設の性格、当該土地が無償で当該施設の敷地としての用に供されるに至った経緯、当該無償提供の態様等の客観的な事情を総合的に考慮して判断すべきであるが、これらに対する一般人の評価等の主観的な事情については、判断の基礎とすべきでない。
国公有地が無償で宗教的施設の敷地としての用に供されている状態が、政教分離原則に反するか否かを判断するに当たっては、当該宗教的施設の性格、当該土地が無償で当該施設の敷地としての用に供されるに至った経緯、当該無償提供の態様等の客観的な事情を総合的に考慮して判断すべきであるが、これらに対する一般人の評価等の主観的な事情については、判断の基礎とすべきでない。
(正答) ✕
(解説)
空知太神社事件判決(最大判平22.1.20)は、「国公有地が無償で宗教的施設の敷地としての用に供されている状態が、前記の見地から、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えて憲法89条に違反するか否かを判断するに当たっては、当該宗教的施設の性格、当該土地が無償で当該施設の敷地としての用に供されるに至った経緯、当該無償提供の態様、これらに対する一般人の評価等、諸般の事情を考慮し、社会通念に照らして総合的に判断すべきものと解するのが相当である。」としているから、「一般人の評価」も考慮に入れることとなる。
空知太神社事件判決(最大判平22.1.20)は、「国公有地が無償で宗教的施設の敷地としての用に供されている状態が、前記の見地から、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えて憲法89条に違反するか否かを判断するに当たっては、当該宗教的施設の性格、当該土地が無償で当該施設の敷地としての用に供されるに至った経緯、当該無償提供の態様、これらに対する一般人の評価等、諸般の事情を考慮し、社会通念に照らして総合的に判断すべきものと解するのが相当である。」としているから、「一般人の評価」も考慮に入れることとなる。