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教育を受ける権利、教育の義務

旭川学テ事件 最大判昭和51年5月21日

概要
①親は、子どもの教育に対する一定の支配権、すなわち子女の教育の自由を有すると認められるが、このような親の教育の自由は、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由にあらわれるものと考えられるし、また、私学教育における自由や前述した教師の教授の自由も、それぞれ限られた一定の範囲においてこれを肯定するのが相当であるけれども、それ以外の領域においては、国は、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有する。
②学校において現実に子どもの教育の任にあたる教師には、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障される。しかし、普通教育においては、児童生徒にこのような能力がなく、教師が児童生徒に対して強い影響力、支配力を有することを考え、また、普通教育においては、子どもの側に学校や教師を選択する余地が乏しく、教育の機会均等をはかる上からも全国的に一定の水準を確保すべき強い要請があること等に思いをいたすときは、普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることは、とうてい許されない。
③本件当時の中学校学習指導要領は、全体としてみた場合、教育政策上の当否はともかくとして、少なくとも法的見地からは、に必要かつ合理的な基準の設定として是認することができる。
④本件学力調査には、教育そのものに対する「不当な支配」として教基法10条に違反するものではない。
⑤本件学力調査における調査の実施には、教育における地方自治の原則に反する違法があるとはいえない。
判例
事案:文部省が全国の中学校2年・3年の全生徒を対象とする全国中学校一斉学力テストを企画し、各都道府県教育委員会に対し地方教育行政の組織及び運営に関する法律54条2項に基づき、この調査及びその結果に関する資料・報告の提出を求めた。本事件では、一斉学力テストが旧教育基本法10条1項の「不当な支配」に該当するかが問題となった。

判旨:「1 子どもの教育と教育権能の帰属の問題
 わが国の法制上子どもの教育の内容を決定する権能が誰に帰属するとされているかについては、二つの極端に対立する見解があり、そのそれぞれが検察官及び弁護人の主張の基底をなしているようにみうけられる。すなわち、一の見解は、子どもの教育は、親を含む国民全体の共通関心事であり、公教育制度は、このような国民の期待と要求に応じて形成、実施されるものであつて、そこにおいて支配し、実現されるべきものは国民全体の教育意思であるが、この国民全体の教育意思は、憲法の採用する議会制民主主義の下においては、国民全体の意思の決定の唯一のルートである国会の法律制定を通じて具体化されるべきものであるから、法律は、当然に、公教育における教育の内容及び方法についても包括的にこれを定めることができ、また、教育行政機関も、法律の授権に基づく限り、広くこれらの事項について決定権限を有する、と主張する。これに対し、他の見解は、子どもの教育は、憲法26条の保障する子どもの教育を受ける権利に対する責務として行われるべきもので、このような責務をになう者は、親を中心とする国民全体であり、公教育としての子どもの教育は、いわば親の教育義務の共同化ともいうべき性格をもつのであつて、それ故にまた、教基法10条項も、教育は、国民全体の信託の下に、これに対して直接に責任を負うように行われなければならないとしている、したがつて、権力主体としての国の子どもの教育に対するかかわり合いは、右のような国民の教育義務の遂行を側面から助成するための諸条件の整備に限られ、子どもの教育の内容及び方法については、国は原則として介入権能をもたず、教育は、その実施にあたる教師が、その教育専門家としての立場から、国民全体に対して教育的、文化的責任を負うような形で、その内容及び方法を決定、遂行すべきものであり、このことはまた、憲法23条における学問の自由の保障が、学問研究の自由ばかりでなく、教授の自由をも含み、教授の自由は、教育の本質上、高等教育のみならず、普通教育におけるそれにも及ぶと解すべきことによつても裏付けられる、と主張するのである。
 当裁判所は、右の二つの見解はいずれも極端かつ一方的であり、そのいずれをも全面的に採用することはできないと考える。以下に、その理由と当裁判所の見解を述べる。
 2 憲法と子どもに対する教育権能
 (一)憲法中教育そのものについて直接の定めをしている規定は憲法26条であるが、同条は、1項において、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」と定め、2項において、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」と定めている。この規定は、福祉国家の理念に基づき、国が積極的に教育に関する諸施設を設けて国民の利用に供する責務を負うことを明らかにするとともに、子どもに対する基礎的教育である普通教育の絶対的必要性にかんがみ、親に対し、その子女に普通教育を受けさせる義務を課し、かつ、その費用を国において負担すべきことを宣言したものであるが、この規定の背後には、国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に、みずから学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していると考えられる。換言すれば、子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学習をする権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属するものとしてとらえられているのである。
 しかしながら、このように、子どもの教育が、専ら子どもの利益のために、教育を与える者の責務として行われるべきものであるということからは、このような教育の内容及び方法を、誰がいかにして決定すべく、また、決定することができるかという問題に対する一定の結論は、当然には導き出されない。すなわち、同条が、子どもに与えるべき教育の内容は、国の一般的な政治的意思決定手続によつて決定されるべきか、それともこのような政治的意思の支配、介入から全く自由な社会的、文化的領域内の問題として決定、処理されるべきかを、直接一義的に決定していると解すべき根拠は、どこにもみあたらないのである。
 (二)次に、学問の自由を保障した憲法23条により、学校において現実に子どもの教育の任にあたる教師は、教授の自由を有し、公権力による支配、介入を受けないで自由に子どもの教育内容を決定することができるとする見解も、採用することができない。確かに、憲法の保障する学問の自由は、単に学問研究の自由ばかりでなく、その結果を教授する自由をも含むと解されるし、更にまた、専ら自由な学問的探究と勉学を旨とする大学教育に比してむしろ知識の伝達と能力の開発を主とする普通教育の場においても、例えば教師が公権力によつて特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定できないではない。しかし、大学教育の場合には、学生が一応教授内容を批判する能力を備えていると考えられるのに対し、普通教育においては、児童生徒にこのような能力がなく、教師が児童生徒に対して強い影響力、支配力を有することを考え、また、普通教育においては、子どもの側に学校や教師を選択する余地が乏しく、教育の機会均等をはかる上からも全国的に一定の水準を確保すべき強い要請があること等に思いをいたすときは、普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることは、とうてい許されないところといわなければならない。もとより、教師間における討議や親を含む第三者からの批判によつて、教授の自由にもおのずから抑制が加わることは確かであり、これに期待すべきところも少なくないけれども、それによつて右の自由の濫用等による弊害が効果的に防止されるという保障はなく、憲法が専ら右のような社会的自律作用による抑制のみに期待していると解すべき合理的根拠は、全く存しないのである。
 (三)思うに、子どもはその成長の過程において他からの影響によつて大きく左右されるいわば可塑性をもつ存在であるから、子どもにどのような教育を施すかは、その子どもが将来どのような大人に育つかに対して決定的な役割をはたすものである。それ故、子どもの教育の結果に利害と関心をもつ関係者が、それぞれその教育の内容及び方法につき深甚な関心を抱き、それぞれの立場からその決定、実施に対する支配権ないしは発言権を主張するのは、極めて自然な成行きということができる。子どもの教育は、前述のように、専ら子どもの利益のために行われるべきものであり、本来的には右の関係者らがその目的の下に一致協力して行うべきものであるけれども、何が子どもの利益であり、また、そのために何が必要であるかについては、意見の対立が当然に生じうるのであつて、そのために教育内容の決定につき矛盾、対立する主張の衝突が起こるのを免れることができない。憲法がこのような矛盾対立を一義的に解決すべき一定の基準を明示的に示していないことは、上に述べたとおりである。そうであるとすれば、憲法の次元におけるこの問題の解釈としては、右の関係者らのそれぞれの主張のよつて立つ憲法上の根拠に照らして各主張の妥当すべき範囲を画するのが、最も合理的な解釈態度というべきである。
 そして、この観点に立つて考えるときは、まず親は、子どもに対する自然的関係により、子どもの将来に対して最も深い関心をもち、かつ、配慮をすべき立場にある者として、子どもの教育に対する一定の支配権、すなわち子女の教育の自由を有すると認められるが、このような親の教育の自由は、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由にあらわれるものと考えられるし、また、私学教育における自由や前述した教師の教授の自由も、それぞれ限られた一定の範囲においてこれを肯定するのが相当であるけれども、それ以外の領域においては、一般に社会公共的な問題について国民全体の意思を組織的に決定、実現すべき立場にある国は、国政の一部として広く適切な教育政策を樹立、実施すべく、また、しうる者として、憲法上は、あるいは子ども自身の利益の擁護のため、あるいは子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有するものと解さざるをえず、これを否定すべき理由ないし根拠は、どこにもみいだせないのである。もとより、政党政治の下で多数決原理によつてされる国政上の意思決定は、さまざまな政治的要因によつて左右されるものであるから、本来人間の内面的価値に関する文化的な営みとして、党派的な政治的観念や利害によつて支配されるべきでない教育にそのような政治的影響が深く入り込む危険があることを考えるときは、教育内容に対する右のごとき国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請されるし、殊に個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、誤つた知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法26条、13条の規定上からも許されないと解することができるけれども、これらのことは、前述のような子どもの教育内容に対する国の正当な理由に基づく合理的な決定権能を否定する理由となるものではないといわなければならない。
 3 教基法10条の解釈
 …(中略)…
 思うに、国の教育行政機関が法律の授権に基づいて義務教育に属する普通教育の内容及び方法について遵守すべき基準を設定する場合には、教師の創意工夫の尊重等教基法10条に関してさきに述べたところのほか、後述する教育に関する地方自治の原則をも考慮し、右教育における機会均等の確保と全国的な一定の水準の維持という目的のために必要かつ合理的と認められる大綱的なそれにとどめられるべきものと解しなければならないけれども、右の大綱的基準の範囲に関する原判決の見解は、狭きに失し、これを採用することはできないと考える。これを前記学習指導要領についていえば、文部大臣は、学校教育法38条、106条による中学校の教科に関する事項を定める権限に基づき、普通教育に属する中学校における教育の内容及び方法につき、上述のような教育の機会均等の確保等の目的のために必要かつ合理的な基準を設定することができるものと解すべきところ、本件当時の中学校学習指導要領の内容を通覧するのに、おおむね、中学校において地域差、学校差を超えて全国的に共通なものとして教授されることが必要な最小限度の基準と考えても必ずしも不合理とはいえない事項が、その根幹をなしていると認められるのであり、その中には、ある程度細目にわたり、かつ、詳細に過ぎ、また、必ずしも法的拘束力をもつて地方公共団体を制約し、又は教師を強制するのに適切でなく、また、はたしてそのように制約し、ないしは強制する趣旨であるかどうか疑わしいものが幾分含まれているとしても、右指導要領の下における教師による創造的かつ弾力的な教育の余地や、地方ごとの特殊性を反映した個別化の余地が十分に残されており、全体としてはなお全国的な大綱的基準としての性格をもつものと認められるし、また、その内容においても、教師に対し一方的な一定の理論ないしは観念を生徒に教え込むことを強制するような点は全く含まれていないのである。それ故、上記指導要領は、全体としてみた場合、教育政策上の当否はともかくとして、少なくとも法的見地からは、上記目的のために必要かつ合理的な基準の設定として是認することができるものと解するのが、相当である。」
 4 本件学力調査と教基法10条
 そこで、以上の解釈に基づき、本件学力調査が教基法一〇条一項にいう教育に対する「不当な支配」として右規定に違反するかどうかを検討する。
 本件学力調査が教育行政機関である文部大臣において企画、立案し、その要求に応じて実施された行政調査たる性格をもつものであることはさきに述べたとおりであるところ、それが行政調査として教基法10条との関係において適法とされうるかどうかを判断するについては、さきに述べたとおり、その調査目的において文部大臣の所掌とされている事項と合理的関連性を有するか、右の目的のために本件のような調査を行う必要性を肯定することができるか、本件の調査方法に教育に対する不当な支配とみられる要素はないか等の問題を検討しなければならない。
 …(中略)…
 以上説示のとおりであつて、本件学力調査には、教育そのものに対する「不当な支配」として教基法10条に違反する違法があるとすることはできない。」
 5 本件学力調査と教育の地方自治
 なお、原判決は、文部大臣が地教委をして本件のような調査を実施させたことは、現行教育法制における教育の地方自治の原則に反するものを含むとして、この点からも本件学力調査の適法性を問題としているので、最後にこの点について判断を加える。
 …(中略)…
 文部大臣は、地教行法54条2項によつては地教委に対し本件学力調査の実施をその義務として要求することができないことは、さきに三において述べたとおりであり、このような要求をすることが教育に関する地方自治の原則に反することは、これを否定することができない。しかしながら、文部大臣の右要求行為が法律の根拠に基づかないものであるとしても、そのために右要求に応じて地教委がした実施行為が地方自治の原則に違反する行為として違法となるかどうかは、おのずから別個の問題である。思うに、文部大臣が地教行法五四条二項によつて地教委に対し本件学力調査の実施を要求することができるとの見解を示して、地教委にその義務の履行を求めたとしても、地教委は必ずしも文部大臣の右見解に拘束されるものではなく、文部大臣の右要求に対し、これに従うべき法律上の義務があるかどうか、また、法律上の義務はないとしても、右要求を一種の協力要請と解し、これに応ずるのを妥当とするかどうかを、独自の立場で判断し、決定する自由を有するのである。それ故、地教委が文部大臣の要求に応じてその要求にかかる事項を実施した場合には、それは、地教委がその独自の判断に基づきこれに応ずべきものと決定して実行に踏み切つたことに帰着し、したがつて、たとえ右要求が法律上の根拠をもたず、当該地教委においてこれに従う義務がない場合であつたとしても、地教委が当該地方公共団体の内部において批判を受けることは格別、窮極的にはみずからの判断と意見に基づき、その有する権限の行使としてした実施行為がそのために実質上違法となるべき理はないというべきである。それ故、本件学力調査における調査の実施には、教育における地方自治の原則に反する違法があるとすることはできない。」
過去問・解説
(H19 司法 第9問 エ)
最高裁判所の判例によれば、学問の自由は教授の自由を含み、普通教育における教師に対しても一定の範囲における教授の自由が保障されるが、大学教育と異なり普通教育においては教師に完全な教授の自由は認められない。

(正答)  

(解説)
旭川学テ事件判決(最大判昭51.5.21)は、「普通教育の場においても、…教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定できないではない。」とする一方で、「しかし、普通教育においては、児童生徒にこのような能力がなく、教師が児童生徒に対して強い影響力、支配力を有することを考え、また、普通教育においては、子どもの側に学校や教師を選択する余地が乏しく、教育の機会均等をはかる上からも全国的に一定の水準を確保すべき強い要請があること等に思いをいたすときは、普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることは、とうてい許されない…。」としている。

(H20 司法 第8問 ア)
国は、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容について決定する権能を有し、教育の目的を遂行するに必要な諸条件を整備確立するため、教育の内容や方法について遵守すべき基準を設定できる。しかし、それは、教育における機会均等の確保と全国的な一定水準の維持という目的のために必要かつ合理的と認められる大綱的なものにとどめられるべきである。

(正答)  

(解説)
旭川学テ事件判決(最大判昭51.5.21)は、「国は、…必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有する」とする一方で、その範囲について、「国の教育行政機関が法律の授権に基づいて義務教育に属する普通教育の内容及び方法について遵守すべき基準を設定する場合には、教師の創意工夫の尊重等教基法10条に関してさきに述べたところのほか、後述する教育に関する地方自治の原則をも考慮し、右教育における機会均等の確保と全国的な一定の水準の維持という目的のために必要かつ合理的と認められる大綱的なそれにとどめられるべきものと解しなければならない」としている。

(H23 共通 第9問 ア)
国民各自は、一個の人間として、また一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習する固有の権利を有し、特に、子どもは、そのための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有する。

(正答)  

(解説)
旭川学テ事件判決(最大判昭51.5.21)は、「憲法26条…の背後には、国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に、みずから学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していると考えられる。」としている。

(H23 共通 第9問 イ)
個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入は、許されない。

(正答)  

(解説)
旭川学テ事件判決(最大判昭51.5.21)は、「国は、…必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有する」とする一方で、「殊に個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、誤つた知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法26条、13条の規定上からも許されない」としている。


(H23 共通 第9問 ウ)
子どもの教育は、専ら子どもの利益のために、教育を与える者の責務として行われるべきものであるから、教育の内容及び方法については、その実施に当たる教師が、教育専門家としての立場から、決定し遂行すべきものである。

(正答)  

(解説)
旭川学テ事件判決(最大判昭51.5.21)は、「普通教育の場においても、…教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定できないではない。」とする一方で、「しかし、普通教育においては、児童生徒にこのような能力がなく、教師が児童生徒に対して強い影響力、支配力を有することを考え、また、普通教育においては、子どもの側に学校や教師を選択する余地が乏しく、教育の機会均等をはかる上からも全国的に一定の水準を確保すべき強い要請があること等に思いをいたすときは、普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることは、とうてい許されない…。」としている。

(H25 共通 第10問 ア)
憲法26条の規定の背後には、特に、自ら学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するために、教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するという観念が存在する。

(正答)  

(解説)
旭川学テ事件判決(最大判昭51.5.21)は、「憲法26条…の背後には、国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に、みずから学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していると考えられる。」としている。

(H27 司法 第8問 ア)
憲法26条が子どもの学習権を保障していることから、教育の内容及び方法を誰がいかにして決定し得るかという問題に対する一定の結論が当然に導き出されるわけではない。

(正答)  

(解説)
旭川学テ事件判決(最大判昭51.5.21)は、「憲法26条…の背後には、…特に、みずから学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していると考えられる。」とする一方で、「しかしながら、このように、子どもの教育が、専ら子どもの利益のために、教育を与える者の責務として行われるべきものであるということからは、このような教育の内容及び方法を、誰がいかにして決定すべく、また、決定することができるかという問題に対する一定の結論は、当然には導き出されない。」としている。

(H27 司法 第8問 イ)
親の教育の自由は、主として家庭教育等、学校外での教育において現れるものであり、学校選択の自由はこれに含まれない。

(正答)  

(解説)
旭川学テ事件判決(最大判昭51.5.21)は、「親の教育の自由は、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由にあらわれるものと考えられる…」としている。

(H30 共通 第7問 イ)
学問の自由は、学問研究の自由とその研究結果の発表の自由だけでなく、その研究結果を教授する自由をも含むところ、教育の本質上、教師は、高等学校以下の普通教育においても、教授の自由を有し、自らの判断で教育内容を決定することができるのであって、国が教育内容の決定に介入することは許されない。

(正答)  

(解説)
旭川学テ事件判決(最大判昭51.5.21)は、「普通教育の場においても、…教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定できないではない。」とする一方で、「しかし、普通教育においては、児童生徒にこのような能力がなく、教師が児童生徒に対して強い影響力、支配力を有することを考え、また、普通教育においては、子どもの側に学校や教師を選択する余地が乏しく、教育の機会均等をはかる上からも全国的に一定の水準を確保すべき強い要請があること等に思いをいたすときは、普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることは、とうてい許されない…。」としている。

(R2 共通 第7問 イ)
判例によれば、普通教育においては、児童生徒には大学の学生のような批判能力がなく、学校や教師を選択する余地も乏しいことなどから、憲法23条によっても、普通教育における教師に完全な教授の自由は認められない。

(正答)  

(解説)
旭川学テ事件判決(最大判昭51.5.21)は、「普通教育の場においても、…教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定できないではない。」とする一方で、「しかし、普通教育においては、児童生徒にこのような能力がなく、教師が児童生徒に対して強い影響力、支配力を有することを考え、また、普通教育においては、子どもの側に学校や教師を選択する余地が乏しく、教育の機会均等をはかる上からも全国的に一定の水準を確保すべき強い要請があること等に思いをいたすときは、普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることは、とうてい許されない…。」としている。

(R3 司法 第7問 イ)
子どもの教育は教師と子どもとの間の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないが、全国的に一定の水準の教育を確保する必要があるので、教師に教授の具体的内容及び方法について裁量を認めることはできない。

(正答)  

(解説)
旭川学テ事件判決(最大判昭51.5.21)は、「子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定できないではない。」としている。

(R4 共通 第8問 ア)
憲法26条の規定の背後には、子どもは学習権を有するとの観念が存在しており、子どもに対する教育は、専ら子どもの利益のために、教育を与える者の責務として行われるべきものであることからすると、教育の内容及び方法は、基本的に、子どもの教育の実施に当たる教師が決定すべきこととなる。

(正答)  

(解説)
旭川学テ事件判決(最大判昭51.5.21)は、「学問の自由を保障した憲法23条により、学校において現実に子どもの教育の任にあたる教師は、教授の自由を有し、公権力による支配、介入を受けないで自由に子どもの教育内容を決定することができるとする見解も、採用することができない。」とした上で、「国は、…必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有する」としている。
総合メモ

教科書代負担請求事件 最大判昭和39年2月26日

概要
憲法26条2項後段は、授業料のほかに、教科書、学用品その他教育に必要な一切の費用まで無償としなければならないことを定めたものと解することはできない。
判例
事案:憲法26条2項後段が「無償」を保障する「義務教育」の範囲が問題となった。

判旨:「憲法26条は、すべての国民に対して教育を受ける機会均等の権利を保障すると共に子女の保護者に対し子女をして最少限度の普通教育を受けさせる義務教育の制度と義務教育の無償制度を定めている。しかし、普通教育の義務制ということが、必然的にそのための子女就学に要する一切の費用を無償としなければならないものと速断することは許されない。けだし、憲法がかように保護者に子女を就学せしむべき義務を課しているのは、単に普通教育が民主国家の存立、繁栄のため必要であるという国家的要請だけによるものではなくして、それがまた子女の人格の完成に必要欠くべからざるものであるということから、親の本来有している子女を教育すべき責務を完うせしめんとする趣旨に出たものでもあるから、義務教育に要する一切の費用は、当然に国がこれを負担しなければならないものとはいえないからである。
 憲法26条2項後段の「義務教育は、これを無償とする。」という意義は、国が義務教育を提供するにつき有償としないこと、換言すれば、子女の保護者に対しその子女に普通教育を受けさせるにつき、その対価を徴収しないことを定めたものであり、教育提供に対する対価とは授業料を意味するものと認められるから、同条項の無償とは授業料不徴収の意味と解するのが相当である。そして、かく解することは、従来一般に国または公共団体の設置にかかる学校における義務教育には月謝を無料として来た沿革にも合致するものである。また、教育基本法4条2項および学校教育法6条但書において、義務教育については授業料はこれを徴収しない旨規定している所以も、右の憲法の趣旨を確認したものであると解することができる。それ故、憲法の義務教育は無償とするとの規定は、授業料のほかに、教科書、学用品その他教育に必要な一切の費用まで無償としなければならないことを定めたものと解することはできない。
 もとより、憲法はすべての国民に対しその保護する子女をして普通教育を受けさせることを義務として強制しているのであるから、国が保護者の教科書等の費用の負担についても、これをできるだけ軽減するよう配慮、努力することは望ましいところであるが、それは、国の財政等の事情を考慮して立法政策の問題として解決すべき事柄であつて、憲法の前記法条の規定するところではないというべきである。」
過去問・解説
(H20 司法 第8問 ウ)
憲法第26条第2項後段の義務教育の無償の規定は、直接には、普通教育の対価を徴収しないこと、すなわち、授業料の不徴収を定める趣旨である。ただし、教科書、学用品等の授業料以外の費用については、国の財政等の事情を考慮して立法により無償と定められた場合に、その限度で、同項の義務教育の無償の内容となる。

(正答)  

(解説)
教科書代負担請求事件判決(最大判昭39.2.26)は、「憲法26条2項後段…は、授業料のほかに、教科書、学用品その他教育に必要な一切の費用まで無償としなければならないことを定めたものと解することはできない。」とした上で、「もとより、…国が保護者の教科書等の費用の負担についても、これをできるだけ軽減するよう配慮、努力することは望ましいところであるが、それは、国の財政等の事情を考慮して立法政策の問題として解決すべき事柄であつて、憲法の前記法条の規定するところではないというべきである。」としているが、仮に教科書・学用品等の授業料以外の費用について立法により無償と定められた場合であっても、憲法26条2項後段でいう義務教育の無償の内容となるわけではない。

(H25 共通 第10問 ウ)
憲法は、義務教育の無償を規定している。そこで無償とすることが求められているのは、授業料と教科書代のみであり、文房具代や給食費等就学に必要な一切の費用まで意味するものではない。

(正答)  

(解説)
教科書代負担請求事件判決(最大判昭39.2.26)は、「憲法の義務教育は無償とするとの規定は、授業料のほかに、教科書、学用品その他教育に必要な一切の費用まで無償としなければならないことを定めたものと解することはできない。」としており、憲法26条2項後段の「義務教育は、これを無償とする。」という内容には教科書代の無償までは含まれないと解している。

(R4 共通 第8問 ウ)
憲法第26条第2項は、子女に教育を受けさせることを国民に義務付け、義務教育は無償とすると定めているのであるから、同項は、義務教育に関する限り、授業料のほか、教科書代金や学用品についても国が負担することを定めたものと解される。

(正答)  

(解説)
教科書代負担請求事件判決(最大判昭39.2.26)は、「憲法の義務教育は無償とするとの規定は、授業料のほかに、教科書、学用品その他教育に必要な一切の費用まで無償としなければならないことを定めたものと解することはできない。」としている。
総合メモ

伝習館高校事件 最一小判平成2年1月18日

概要
日常の教育のあり方を律する学校教育法の規定や学習指導要領の定めに違反する授業をしたこと等を理由とする県立高等学校教諭に対する懲戒免職処分は、裁量権の逸脱・濫用に当たらない。
判例
事案:日常の教育のあり方を律する学校教育法の規定や学習指導要領の定めに違反する授業をしたこと等を理由とする県立高等学校教諭に対する懲戒免職処分の有効性が争われ、これに関連して、学習指導要領の法的拘束力の有無が問題となった。
 なお、学習指導要領とは、学校教育法20条による文部大臣に授権された「教育に関する事項」の行政立法権が同法施行規則25条に基づき文部省告示に再委任されたことにより、告示の形式で教育課程の基準について定められたものをいう。このように、学習指導要領は、法律の再委任を受けたものであるから、法規範として法的拘束力を認めることに問題はないともいえそうである。また、普通教育においては全国的に一定の教育水準を確保すべき要請があるから、学習指導要領によって国家が教育内容を決定することの必要性は認めざるを得ない。しかし他方で、国が教育内容についてあまりに具体的かつ詳細に決定できるとすると、本来人間の内面的な価値に関する文化的な営みとして行われるべき教育の内容に党派的な政治的観念や利害が深く入り込む危険が高まるため、一般的には、学習指導要領は、教育課程の構成要素・教科名・授業時間数等の教育の大網的な基準についてのみ法的拘束力を有し、この限界を超えて教育内容に介入する要領は指導助言文言と解される限りで適法であると解すべきである。

判旨:「地方公務員につき地公法所定の懲戒事由がある場合に、懲戒処分を行うかどうか、懲戒処分を行うときにいかなる処分を選ぶかは、平素から庁内の事情に通暁し、職員の指揮監督の衝に当たる懲戒権者の裁量に任されているものというべきである。すなわち、懲戒権者は、懲戒事由に該当すると認められる行為の原因、動機、性質、態様、結果、影響等のほか、当該公務員の右行為の前後における態度、懲戒処分等の処分歴、選択する処分が他の公務員及び社会に与える影響等、諸般の事情を総合的に考慮して、懲戒処分をすべきかどうか、また、懲戒処分をする場合にいかなる処分を選択すべきかを、その裁量的判断によって決定することができるものと解すべきである。したがって、裁判所が右の処分の適否を審査するに当たっては、懲戒権者と同一の立場に立って懲戒処分をすべきであったかどうか又はいかなる処分を選択すべきであったかについて判断し、その結果と懲戒処分とを比較してその軽重を論ずべきものではなく、懲戒権者の裁量権の行使に基づく処分が社会概念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を逸脱しこれを濫用したと認められる場合に限り、違法であると判断すべきものである…。
 思うに、高等学校の教育は、高等普通教育及び専門教育を施すことを目的とするものではあるが、中学校の教育の基礎の上に立って、所定の修業年限の間にその目的を達成しなければならず(学校教育法41条、46条参照)、また、高等学校においても、教師が依然生徒に対し相当な影響力、支配力を有しており、生徒の側には、いまだ教師の教育内容を批判する十分な能力は備わっておらず、教師を選択する余地も大きくないのである。これらの点からして、国が、教育の一定水準を維持しつつ、高等学校教育の目的達成に資するために、高等学校教育の内容及び方法について遵守すべき基準を定立する必要があり、特に法規によってそのような基準が定立されている事柄については、教育の具体的内容及び方法につき高等学校の教師に認められるべき裁量にもおのずから制約が存するのである。
 本件における前記事実関係によれば、懲戒事由に該当する被上告人らの前記各行為は、高等学校における教育活動の中で枢要な部分を占める日常の教科の授業、考査ないし生徒の成績評価に関して行われたものであるところ、教育の具体的内容及び方法につき高等学校の教師に認められるべき裁量を前提としてもなお、明らかにその範囲を逸脱して、日常の教育のあり方を律する学校教育法の規定や学習指導要領の定め等に明白に違反するものである。しかも、被上告人らの右各行為のうち、各教科書使用義務違反の点は、いずれも年間を通じて継続的に行われたものであって、特に被上告人山口の教科書不使用は、所定の教科書は内容が自分の考えと違うとの立場から使用しなかったものであること、被上告人半田の日本史の考査の出題及び授業、地理Bの考査の出題の点は、その内容自体からみて、当該各科目の目標及び内容からの逸脱が著しいとみられるものであること等をも考慮するときは、被上告人らの右各行為の法規違反の程度は決して軽いものではないというべきである。そして、懲戒事由に該当する被上告人らの各行為は、上告人が本件各懲戒免職処分の理由としたもののうちの主要なものである。
 更に、当時の伝習館高校の内外における前記のような背景の下で、同校の校内秩序が極端に乱れた状態にあったことは明らかであり、そのような状況の下において被上告人らが行った前記のような特異な教育活動が、同校の混乱した状態を助長するおそれの強いものであり、また、生徒の父兄に強い不安と不満を抱かせ、ひいては地域社会に衝撃を与えるようなものであったことは否定できないところであって、この意味における被上告人らの責任を軽視することはできない。そのほか、本件各懲戒免職処分の前約1年半の間に、被上告人半田は2回にわたってストライキ参加により戒告及び減給一月の各懲戒処分を受け、また、被上告人山口はストライキ参加により減給1月の懲戒処分を受けていることも、被上告人らの法秩序軽視の態度を示す事情として考慮されなければならないのである。
 以上によれば、上告人が、所管に属する福岡県下の県立高等学校等の教諭等職員の任免その他の人事に関する事務を管理執行する立場において、懲戒事由に該当する被上告人らの前記各行為の性質、態様、結果、影響等のほか、右各行為の前後における被上告人らの態度、懲戒処分歴等の諸事情を考慮のうえ決定した本件各懲戒免職処分を、社会観念上著しく妥当を欠くものとまではいい難く、その裁量権の範囲を逸脱したものと判断することはできない。」
過去問・解説
(H20 司法 第8問 イ)
高等学校教育においても、国は、教育の内容及び方法について遵守すべき基準を定立する必要があるが、教科書を使用しなければならないとする学校教育法の規定は、高等学校については訓示規定と解される。なぜなら、高等学校においては、生徒の側に学校を選択する余地や教育内容を批判する能力が相当程度あり、教育の具体的な内容や方法については、教師の裁量も尊重する必要があるからである。

(正答)  

(解説)
伝習館高校事件判決(最判平2.1.18)は、「高等学校においても、教師が依然生徒に対し相当な影響力、支配力を有しており、生徒の側には、いまだ教師の教育内容を批判する十分な能力は備わっておらず、教師を選択する余地も大きくないのである。これらの点からして、国が、教育の一定水準を維持しつつ、高等学校教育の目的達成に資するために、高等学校教育の内容及び方法について遵守すべき基準を定立する必要があり、特に法規によってそのような基準が定立されている事柄については、教育の具体的内容及び方法につき高等学校の教師に認められるべき裁量にもおのずから制約が存するのである。」として、学習指導要領の法的拘束力を一定範囲で認めている。

(H25 共通 第10問 イ)
教育の具体的方法や内容に関して教師に認められるべき裁量には、おのずから制約がある。自分の考えと異なるとして教科書を使用しないで授業を行ったり、全員に一律の成績評価を行ったりすることは、教師の裁量の範囲内とはいえない。

(正答)  

(解説)
伝習館高校事件判決(最判平2.1.18)は、「国が、教育の一定水準を維持しつつ、高等学校教育の目的達成に資するために、高等学校教育の内容及び方法について遵守すべき基準を定立する必要があり、特に法規によってそのような基準が定立されている事柄については、教育の具体的内容及び方法につき高等学校の教師に認められるべき裁量にもおのずから制約が存するのである。」としており、教育の具体的方法や内容について、教師に認められるべき裁量には制約あることを述べている。したがって、本肢前段は正しい。
また、本判決は、教科書と異なる資料を使用して授業を行ったり、期末考査を実施せず、レポートのみを課し、全員に対して一律に成績評価を行ったことに対しては、「教育の具体的内容及び方法につき高等学校の教師に認められるべき裁量を前提としてもなお、明らかにその範囲を逸脱して、日常の教育のあり方を律する学校教育法の規定や学習指導要領の定め等に明白に違反するものである」としている。したがって、本肢後段も正しい。

(H27 司法 第8問 ウ)
国が一定の教育水準確保のために定立する学習指導要領は、生徒側の教育内容に対する批判能力の程度及び学校選択の余地等に鑑みれば、高等学校では法的拘束力を持たない。

(正答)  

(解説)
伝習館高校事件判決(最判平2.1.18)は、「高等学校においても、教師が依然生徒に対し相当な影響力、支配力を有しており、生徒の側には、いまだ教師の教育内容を批判する十分な能力は備わっておらず、教師を選択する余地も大きくないのである。これらの点からして、国が、教育の一定水準を維持しつつ、高等学校教育の目的達成に資するために、高等学校教育の内容及び方法について遵守すべき基準を定立する必要があり、特に法規によってそのような基準が定立されている事柄については、教育の具体的内容及び方法につき高等学校の教師に認められるべき裁量にもおのずから制約が存するのである。」として、学習指導要領の法的拘束力を一定範囲で認めている。
総合メモ

教育債務履行等請求事件 最一小判平成21年12月10日

概要
学校による生徒募集の際に説明、宣伝された教育内容等の一部が変更され、これが実施されなくなったことが、親の期待、信頼を損なう違法なものとして不法行為を構成するのは、当該学校において生徒が受ける教育全体の中での当該教育内容等の位置付け、当該変更の程度、当該変更の必要性、合理性等の事情に照らし、当該変更が、学校設置者や教師に上記のような裁量が認められることを考慮してもなお、社会通念上是認することができないものと認められる場合に限られるというべきである。
判例
本件は、Yが設置するA中学校又はB高等学校(以下「本件各学校」という。)に在籍していた生徒の親であるXらは、Yに対し、Yが、本件各学校の生徒を募集する際、学校案内や学校説明会等において、論語に依拠した道徳教育の実施を約束したにもかかわらず、子の入学後に同教育を廃止したことは、XらとYとの間で締結された在学契約上の債務不履行に当たり、また、Xらの学校選択の自由を侵害し、不法行為を構成するなどと主張して、債務不履行又は不法行為に基づく損害賠償等を求めた。
 
判旨:①「親が、学校が生徒募集の際に行った教育内容等についての説明、宣伝により、子にその説明、宣伝どおりの教育が施されるとの期待、信頼を抱いて子を当該学校に入学させたにもかかわらず、その後学校がその教育内容等を変更し、説明、宣伝どおりの教育が実施されなくなった結果、親の上記期待、信頼が損なわれた場合において、上記期待、信頼は、およそ法律上保護される利益に当たらないとして直ちに不法行為の成立を否定することは、子に対しいかなる教育を受けさせるかは親にとって重大な関心事であることや上記期待、信頼の形成が学校側の行為に直接起因することからすると、相当ではない。
 他方、上記期待、信頼は、私法上の権利といい得るような明確な実体を有するものではない。生徒募集の際に説明、宣伝された教育内容等の受け止め方やどこに重きを置くのかは、個々の親によって様々であり、すべての親が常に同じ期待、信頼を抱くものではないし、同様の期待、信頼を抱いた親であっても、ある教育内容等が変更されたことにより、その期待、信頼が損なわれたと感じるか否かは、必ずしも一様とはいえない。そうすると、特定の親が、子の入学後の教育内容等の変更により、自己の抱いていた期待、信頼が損なわれたと感じたからといって、それだけで直ちに上記変更が当該親に対する不法行為を構成するものということはできない。
 また、学校教育における教育内容等の決定は、当該学校の教育理念、生徒の実情、物的設備・施設の設置状況、教師・職員の配置状況、財政事情等の各学校固有の事情のほか、学校教育に関する諸法令や学習指導要領との適合性、社会情勢等、諸般の事情に照らし、全体としての教育的効果や特定の教育内容等の実施の可能性、相当性、必要性等を総合考慮して行われるものであって、上記決定は、学校教育に関する諸法令や学習指導要領の下において、教育専門家であり当該学校の事情にも精通する学校設置者や教師の裁量にゆだねられるべきものと考えられる。そして、教育内容等については、上記諸般の事情の変化をも踏まえ、その教育的効果等の評価、検討が不断に行われるべきであり、従前の教育内容等に対する評価の変化に応じてこれを変更することについても、学校設置者や教師に裁量が認められるべきものと考えられる。
 したがって、学校による生徒募集の際に説明、宣伝された教育内容等の一部が変更され、これが実施されなくなったことが、親の期待、信頼を損なう違法なものとして不法行為を構成するのは、当該学校において生徒が受ける教育全体の中での当該教育内容等の位置付け、当該変更の程度、当該変更の必要性、合理性等の事情に照らし、当該変更が、学校設置者や教師に上記のような裁量が認められることを考慮してもなお、社会通念上是認することができないものと認められる場合に限られるというべきである。
 これを本件についてみると、本件で問題とされている教育内容等の変更は、論語に依拠した道徳教育の廃止であるところ、道徳教育それ自体の重要性は否定できないとしても、一般的に、中学校や高等学校における教育全体の中で、道徳教育が他の教科とは異なる格別の重要性を持つとはいえない。また、前記事実関係によれば、本件各学校においても、論語に依拠した道徳教育がその特色となっていたとはいえ、本件道徳授業は、1回35分間の講話と感想文の作成等が、中等部からの入学者についてはその1年次に28回、高等部からの入学者についてはその1年次に14回、それぞれ行われていたにすぎず、C前校長の解任後も、LHR及び合同HRにおいては、道徳教育の行われる回数が減少し、また、論語に依拠した道徳教育は行われていないものの、学習指導要領に沿った道徳教育は引き続き行われており、本件各学校の総授業時間数及び授業項目に変更はなかったというのであって、論語に依拠した道徳教育が廃止されたほかには、本件各学校の教育理念が大きく損なわれたり、教育内容等の水準が大きく低下したことはうかがわれない。そうすると、本件における教育内容等の変更は、道徳教育について論語に依拠した独特の手法でこれを行うことを廃止したにとどまり、これが本件各学校の教育内容等の中核、根幹を変更するものとまではいえない。
 しかも、前記事実関係によれば、Yは、論語に依拠した道徳教育の中心的存在であったC前校長を急きょ解任せざるを得なくなり、その後任として適切な人材を学内から選任する時間的余裕もなかったというのであり、同教育を従前同様に継続することの支障となる事態が生じていたものということができる。そのような状況の下で、E新校長の方針に従い、同教育が廃止され、父母説明会でもE新校長から今後実施する道徳教育の方針等について説明されていたものであって、学校設置者や教師に教育内容等の変更について裁量が認められることをも考慮すると、上記廃止について、その必要性、合理性が否定されるものともいえない。 
 以上の諸事情に照らすと、Yが、本件各学校の生徒募集の際、本件道徳授業等の内容を具体的に説明し、そこで行われていた論語に依拠した道徳教育の教育的効果を強調し、積極的にこれを宣伝していたという事情を考慮しても、Yが同教育を廃止したことは、社会通念上是認することができないものであるとまではいえず、これが、Xらの期待、信頼を損なう違法なものとして不法行為を構成するとは認められない。」
 ②「私立中学校又は私立高等学校の各学校設置者とその生徒との間の在学関係は、在学契約に基づくものであるところ、前記に認定、判断したところからすれば、本件における教育内容等の変更が在学契約上の債務の不履行に当たるものとまですることは困難である。したがって、Xらが在学契約の当事者であるとするXらの主張を前提としても、Xらの債務不履行に基づく損害賠償請求は、理由がない。」
過去問・解説
(H30 共通 第7問 ウ)
親は、子の将来に関して最も深い関心を持ち、かつ、配慮をすべき立場にある者として、子に対する教育の自由を有しており、このような親の教育の自由は、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由にあらわれるところ、親の学校選択の自由は、特定の学校の選択を強要又は妨害された場合、その侵害が問題となり得る。

(正答)  

(解説)
判例(最判平21.12.10)は、「親は、子の将来に対して最も深い関心を持ち、かつ、配慮をすべき立場にある者として、…子の教育の自由を有すると認められ、このような親の教育の自由は、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由にあらわれるものと考えられる…。そして、親の学校選択の自由については、その性質上、特定の学校の選択を強要されたり、これを妨害されたりするなど、学校を選択する際にその侵害が問題となり得る…」としている。
総合メモ