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政教分離の原則 - 解答モード
津地鎮祭事件 最大判昭和52年7月13日
概要
〇津市が同市体育館の建設に当たって神社神道固有の儀式に則った本件起工式(地鎮祭)を挙行したこと上記の起工式の挙行は、宗教団体に特権を与えるものともいえないから、憲法20条1項後段にも違反しない。
〇津市が本件起工式(地鎮祭)の挙行費用として7663円を支出したことは、本件起工式の目的、効果及び支出金の性質、額等から考えると、特定の宗教組織又は宗教団体に対する財政援助的な支出とはいえないから、憲法89条に違反するものではない。
判例
判旨:①「一般に、政教分離原則とは、およそ宗教や信仰の問題は、もともと政治的次元を超えた個人の内心にかかわることがらであるから、世俗的権力である国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)は、これを公権力の彼方におき、宗教そのものに干渉すべきではないとする、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を意味するものとされている。…憲法は、明治維新以降国家と神道とが密接に結びつき前記のような種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けるに至つたのである。元来、わが国においては、キリスト教諸国や回教諸国等と異なり、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているのであつて、このような宗教事情のもとで信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結びつきをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であつた。これらの諸点にかんがみると、憲法は、政教分離規定を設けるにあたり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたもの、と解すべきである。」
また、現実の一般的な慣行としては、建築着工にあたり建築主の主催又は臨席のもとに本件のような儀式をとり入れた起工式を行うことは、特に工事の無事安全等を願う工事関係者にとつては、欠くことのできない行事とされているのであり、このことと前記のような一般人の意識に徴すれば、建築主が一般の慣習に従い起工式を行うのは、工事の円滑な進行をはかるため工事関係者の要請に応じ建築着工に際しての慣習化した社会的儀礼を行うという極めて世俗的な目的によるものであると考えられるのであつて、特段の事情のない本件起工式についても、主催者の津市の市長以下の関係者が右のような一般の建築主の目的と異なるものをもつていたとは認められない。
元来、わが国においては、多くの国民は、地域社会の一員としては神道を、個人としては仏教を信仰するなどし、冠婚葬祭に際しても異なる宗教を使いわけてさしたる矛盾を感ずることがないというような宗教意識の雑居性が認められ、国民一般の宗教的関心度は必ずしも高いものとはいいがたい。他方、神社神道自体については、祭祀儀礼に専念し、他の宗教にみられる積極的な布教・伝道のような対外活動がほとんど行われることがないという特色がみられる。このような事情と前記のような起工式に対する一般人の意識に徴すれば、建築工事現場において、たとえ専門の宗教家である神職により神社神道固有の祭祀儀礼に則つて、起工式が行われたとしても、それが参列者及び一般人の宗教的関心を特に高めることとなるものとは考えられず、これにより神道を援助、助長、促進するような効果をもたらすことになるものとも認められない。そして、このことは、国家が主催して、私人と同様の立場で、本件のような儀式による起工式を行つた場合においても、異なるものではなく、そのために、国家と神社神道との間に特別に密接な関係が生じ、ひいては、神道が再び国教的な地位をえたり、あるいは信教の自由がおびやかされたりするような結果を招くものとは、とうてい考えられないのである。
以上の諸事情を総合的に考慮して判断すれば、本件起工式は、宗教とかかわり合いをもつものであることを否定しえないが、その目的は建築着工に際し土地の平安堅固、工事の無事安全を願い、社会の一般的慣習に従つた儀礼を行うという専ら世俗的なものと認められ、その効果は神道を援助、助長、促進し又は他の宗教に圧迫、干渉を加えるものとは認められないのであるから、憲法20条3項により禁止される宗教的活動にはあたらないと解するのが、相当である。」
過去問・解説
(H19 司法 第6問 ア)
憲法の政教分離規定は、国家と宗教との完全な分離を実現することが実際上不可能であることを前提として、国家が宗教的に中立であることを求めるのではなく、国家と宗教とのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らして、相当な限度を超えると判断される場合にこれを許さないとする趣旨である。
(正答) 〇
(解説)
津地鎮祭事件判決(最大判昭52.7.13)は、「憲法は、政教分離規定を設けるにあたり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたもの、と解すべきである。」とする一方で、「現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。更にまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえつて社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れない…。これらの点にかんがみると、政教分離規定の保障の対象となる国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があることを免れず、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いをもたざるをえないことを前提としたうえで、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが、問題とならざるをえないのである。右のような見地から考えると、わが憲法の前記政教分離規定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが右の諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。」としている。
(H19 司法 第6問 イ)
憲法第20条第2項の狭義の信教の自由とは異なり、同条第3項による保障には限界があるが、同項にいう「宗教的活動」に含まれない宗教上の行為であっても、国及びその機関がそれへの参加を強制すれば、第20条第2項に違反することになると解される。
(正答) 〇
(解説)
津地鎮祭事件判決(最大判昭52.7.13)は、「両者の規定は、それぞれ目的、趣旨、保障の対象、範囲を異にするものであるから、2項の宗教上の行為等と3項の宗教的活動とのとらえ方は、その視点を異にするものというべきであり、2項の宗教上の行為等は、必ずしもすべて3項の宗教的活動に含まれるという関係にあるものではなく、たとえ3項の宗教的活動に含まれないとされる宗教上の祝典、儀式、行事等であっても、宗教的信条に反するとしてこれに参加を拒否する者に対し国家が参加を強制すれば、右の者の信教の自由を侵害し、2項に違反することとなるのはいうまでもない。」としている。
(H19 司法 第6問 ウ)
国及びその機関の行為が憲法第20条第3項にいう「宗教的活動」に当たるか否かを検討するに当たっては、当該行為の外形的側面を考慮するのではなく、行為者の意図、目的、一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念にしたがって判断しなければならない。
(正答) ✕
(解説)
津地鎮祭事件判決(最大判昭52.7.13)は、「憲法20条3項…にいう宗教的活動とは、…およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いをもつすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。…そして、この点から、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては、当該行為の主宰者が宗教家であるかどうか、その順序作法(式次第)が宗教の定める方式に則ったものであるかどうかなど、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念にしたがって、客観的に判断しなければならない。」としているから、憲法20条3項にいう「宗教的活動」に当たるか否かを検討するに当たっては、「当該行為の外形的側面」も考慮される。
(H21 司法 第7問 ア)
日本国憲法が政教分離規定を設けたのは、戦前の信教の自由の保障が不完全なものであったことや、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているという我が国の事情を考慮して、信教の自由の確実な保障のためには国家と宗教との結び付きを排除する必要があると考えられたためである。
(正答) 〇
(解説)
津地鎮祭事件判決(最大判昭52.7.13)は、「憲法は、明治維新以降国家と神道とが密接に結びつき前記のような種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けるに至つたのである。元来、わが国においては、キリスト教諸国や回教諸国等と異なり、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているのであつて、このような宗教事情のもとで信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結びつきをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であつた。これらの諸点にかんがみると、憲法は、政教分離規定を設けるにあたり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたもの、と解すべきである。」としている。
(H21 司法 第7問 イ)
国家と宗教とのかかわり合いが憲法上許容される限度は、国家の行為の目的と効果を考慮して定められる。例えば、ある市が建築工事の無事安全等を神式で祈願する地鎮祭のための費用を公金から支出する場合、行為の目的は、その儀式に対する一般人の評価を考慮せず、市の関係者がどういう意図で支出を行ったかで判断すべきである。
(正答) ✕
(解説)
津地鎮祭事件判決(最大判昭52.7.13)は、「憲法20条3項…にいう宗教的活動とは、…およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いをもつすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。…そして、この点から、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては、当該行為の主宰者が宗教家であるかどうか、その順序作法(式次第)が宗教の定める方式に則ったものであるかどうかなど、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念にしたがって、客観的に判断しなければならない。」としているから、憲法20条3項にいう「宗教的活動」に当たるか否かを検討するに当たっては、「当該行為に対する一般人の宗教的評価」も考慮される。
(H27 予備 第3問 ウ)
国家の非宗教性を定めた政教分離原則は厳格に貫かれるべきであって、仮にそのことによって社会生活各方面に不都合な事態が生じるとしても、信教の自由の保障を一層確実なものにするためにはやむを得ない。
(正答) ✕
(解説)
津地鎮祭事件判決(最大判昭52.7.13)は、「憲法は、政教分離規定を設けるにあたり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたもの、と解すべきである。」とする一方で、「現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。更にまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえつて社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れない…。これらの点にかんがみると、政教分離規定の保障の対象となる国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があることを免れず、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いをもたざるをえないことを前提としたうえで、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが、問題とならざるをえないのである。」としている。
(H29 司法 第5問 イ)
宗教上の祝典、儀式、行事については、その目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為であれば、憲法第20条第3項により禁止される「宗教的活動」に含まれるが、その判断に当たっては、社会通念にしたがって客観的になされなければならないから、行為者がどのような宗教的意識を有していたかについてまで考慮に入れるべきではない。
(正答) ✕
(解説)
津地鎮祭事件判決(最大判昭52.7.13)は、「憲法20条3項…にいう宗教的活動とは、…およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いをもつすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。…そして、この点から、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては、当該行為の主宰者が宗教家であるかどうか、その順序作法(式次第)が宗教の定める方式に則ったものであるかどうかなど、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念にしたがって、客観的に判断しなければならない。」としているから、憲法20条3項にいう「宗教的活動」に当たるか否かを検討するに当たっては、「当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度」も考慮される。
(R1 司法 第4問 ウ)
憲法第20条第3項の禁止する宗教的活動に含まれないとされる宗教上の祝典、儀式、行事等であっても、国又はその機関が、宗教的信条に反するとしてその参加を拒否する者に対してそれらへの参加を強制することは、その者の信教の自由を直接侵害するものとして同条第2項に違反する。
(正答) 〇
(解説)
津地鎮祭事件判決(最大判昭52.7.13)は、「両者の規定は、それぞれ目的、趣旨、保障の対象、範囲を異にするものであるから、2項の宗教上の行為等と3項の宗教的活動とのとらえ方は、その視点を異にするものというべきであり、2項の宗教上の行為等は、必ずしもすべて3項の宗教的活動に含まれるという関係にあるものではなく、たとえ3項の宗教的活動に含まれないとされる宗教上の祝典、儀式、行事等であっても、宗教的信条に反するとしてこれに参加を拒否する者に対し国家が参加を強制すれば、右の者の信教の自由を侵害し、2項に違反することとなるのはいうまでもない。」としている。
(R2 司法 第5問 ア)
政教分離原則に基づく憲法の諸規定は、我が国における宗教事情の下で信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結び付きをも排除する必要性が大きかったことから設けられたものであり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたものである。
(正答) 〇
(解説)
津地鎮祭事件判決(最大判昭52.7.13)は、「憲法は、明治維新以降国家と神道とが密接に結びつき前記のような種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けるに至つたのである。元来、わが国においては、キリスト教諸国や回教諸国等と異なり、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているのであつて、このような宗教事情のもとで信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結びつきをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であつた。これらの諸点にかんがみると、憲法は、政教分離規定を設けるにあたり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたもの、と解すべきである。」としている。
大阪地蔵像訴訟 最一小判平成4年11月16日
概要
判例
判旨:「本件において、大阪市が各町会に対して、地蔵像建立あるいは移設のため、市有地の無償使用を承認するなどした意図、目的は、市営住宅の建替事業を行うに当たり、地元の協力と理解を得て右事業の円滑な進行を図るとともに、地域住民の融和を促進するという何ら宗教的意義を帯びないものであった、もともと本件のような寺院外に存する地蔵像に対する信仰は、仏教としての地蔵信仰が変質した庶民の民間信仰であったが、それが長年にわたり伝承された結果、その儀礼行事は地域住民の生活の中で習俗化し、このような地蔵像の帯有する宗教性は希薄なものとなっている、本件各町会は、その区域に居住する者等によって構成されたいわゆる町内会組織であって、宗教的活動を目的とする団体ではなく、その本件各地蔵像の維持運営に関する行為も、宗教的色彩の希薄な伝統的習俗的行事にとどまっている、というのである。右事実関係の下においては、大阪市が各町会に対して、地蔵像建立あるいは移設のため、市有地の無償使用を承認するなどした行為は、その目的及び効果にかんがみ、その宗教とのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし信教の自由の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるものとは認められず、憲法20条3項あるいは89条の規定に違反するものではない。このことは、最高裁昭和46年(行ツ)第69号同52年7月13日大法廷判決(民集31巻4号533頁)及び最高裁同57年(オ)第902号同63年6月1日大法廷判決(民集42巻5号277頁)の趣旨に徴して明らかであ…る。」
過去問・解説
(H23 司法 第6問 ウ)
町会は、地域住民によって構成される町内会組織であって、宗教的活動を目的とする団体ではなく、町会が地蔵像の維持管理を行う行為も宗教的色彩の希薄な伝統的習俗行事にとどまるから、市が地蔵像建立のために市有地を町会に無償提供した行為は、政教分離規定に反しない。
(正答) 〇
(解説)
大阪地蔵像訴訟判決(最判平4.11.16)は、「本件各町会は、その区域に居住する者等によって構成されたいわゆる町内会組織であって、宗教的活動を目的とする団体ではなく、その本件各地蔵像の維持運営に関する行為も、宗教的色彩の希薄な伝統的習俗的行事にとどまっている」とした上で、「大阪市が各町会に対して、地蔵像建立あるいは移設のため、市有地の無償使用を承認するなどした行為は、その目的及び効果にかんがみ、その宗教とのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし信教の自由の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるものとは認められず、憲法20条3項あるいは89条の規定に違反するものではない。」としている。
箕面忠魂碑・慰霊祭訴訟 最三小判平成5年2月16日
概要
②財団法人日本遺族会及びその支部遺族会は「宗教団体」及び「宗教上の組織若しくは団体」に該当しないから、①の行為は、憲法20条1項後段及び憲法89条前段にも違反しない。
判例
判旨:①「右政教分離原則の意義に照らすと、憲法20条3項にいう宗教的活動とは、およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いを持つすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきであり、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するか否かを検討するに当たっては、当該行為の主宰者が宗教家であるかどうか、その順序作法(式次第)が宗教の定める方式に従ったものであるかどうかなど、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならないものである。
過去問・解説
(H21 司法 第7問 ウ)
憲法第20条第1項後段にいう「宗教団体」とは、特定の宗教の信仰、礼拝又は普及等の宗教的活動を行うことを本来の目的とする組織ないし団体を指す。したがって、例えば戦没者遺族の相互扶助・福祉向上と英霊の顕彰を主たる目的とする団体が行う宗教的行事に対し、ある市が援助を与えたとしても、その援助は目的効果基準を用いるまでもなく合憲である。
(正答) ✕
(解説)
箕面忠魂碑・慰霊祭訴訟判決(最判平5.2.16)は、「憲法20条1項後段にいう「宗教団体」、憲法89条にいう「宗教上の組織若しくは団体」とは、…特定の宗教の信仰、礼拝又は普及等の宗教的活動を行うことを本来の目的とする組織ないし団体を指すものと解するのが相当である。」とた上で、「財団法人日本遺族会及びその支部である市遺族会、地区遺族会は、いずれも、特定の宗教の信仰、礼拝又は普及等の宗教的活動を行うことを本来の目的とする組織ないし団体には該当しないものというべきであって、憲法20条1項後段にいう「宗教団体」、憲法89条にいう「宗教上の組織若しくは団体」に該当しないものと解するのが相当である。」として、市が遺族会に対して財政的援助をしたことについて、目的効果基準を用いるまでもなく、憲法20条1項後段及び憲法89条前段に違反しないとしている。
しかし、本判決は、同じ係争行為について、宗教とのかかわり合いをもつ行為であることを前提として、「その目的は、…専ら世俗的なものと認められ、その効果も、特定の宗教を援助、助長、促進し又は他の宗教に圧迫、干渉を加えるものとは認められない。したがって、箕面市の右各行為は、宗教とのかかわり合いの程度が我が国の社会的、文化的諸条件に照らし、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるものとは認められず、憲法20条3項により禁止される宗教的活動には当たらないと解するのが相当である。」として、目的効果基準を用いて憲法20条3項に違反しないと結論付けている。
愛媛玉串科事件 最大判平成9年4月2日
概要
②県が靖国神社又は護国神社の挙行した例大祭、みたま祭又は慰霊大祭に際し玉串料、献灯料又は供物料を県の公金から支出して奉納したことは、「公金その他の公の財産」を「宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため…に…支出」するものであり、憲法89条前段に違反する。
判例
愛媛県の住民Xらは、上記公金支出について、憲法20条3項及び憲法89条前段違反を主張して、当時愛知県知事の職にあったYらを被告として、平成14年改正前の地方自治法242条の2第1項4号に基づき損害賠償請求訴訟を提起した。
判旨:①「政教分離原則の意義に照らすと、憲法20条3項にいう宗教的活動とは、およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いを持つすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。そして、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。憲法89条が禁止している公金その他の公の財産を宗教上の組織又は団体の使用、便益又は維持のために支出すること又はその利用に供することというのも、前記の政教分離原則の意義に照らして、公金支出行為等における国家と宗教とのかかわり合いが前記の相当とされる限度を超えるものをいうものと解すべきであり、これに該当するかどうかを検討するに当たっては、前記と同様の基準によって判断しなければならない。
Yらは、いずれも宗教法人であって憲法20条1項後段にいう宗教団体に当たることが明らかな靖國神社又は護國神社が各神社の境内において挙行した恒例の宗教上の祭祀である例大祭、みたま祭又は慰霊大祭に際して、玉串料、献灯料又は供物料を奉納するため、前記回数にわたり前記金額の金員を県の公金から支出したというのである。ところで、神社神道においては、祭祀を行うことがその中心的な宗教上の活動であるとされていること、例大祭及び慰霊大祭は、神道の祭式にのっとって行われる儀式を中心とする祭祀であり、各神社の挙行する恒例の祭祀中でも重要な意義を有するものと位置付けられていること、みたま祭は、同様の儀式を行う祭祀であり、靖國神社の祭祀中最も盛大な規模で行われるものであることは、いずれも公知の事実である。そして、玉串料及び供物料は、例大祭又は慰霊大祭において右のような宗教上の儀式が執り行われるに際して神前に供えられるものであり、献灯料は、これによりみたま祭において境内に奉納者の名前を記した灯明が掲げられるというものであって、いずれも各神社が宗教的意義を有すると考えていることが明らかなものである。これらのことからすれば、県が特定の宗教団体の挙行する重要な宗教上の祭祀にかかわり合いを持ったということが明らかである。そして、一般に、神社自体がその境内において挙行する恒例の重要な祭祀に際して右のような玉串料等を奉納することは、建築主が主催して建築現場において土地の平安堅固、工事の無事安全等を祈願するために行う儀式である起工式の場合とは異なり、時代の推移によって既にその宗教的意義が希薄化し、慣習化した社会的儀礼にすぎないものになっているとまでは到底いうことができず、一般人が本件の玉串料等の奉納を社会的儀礼の一つにすぎないと評価しているとは考え難いところである。そうであれば、玉串料等の奉納者においても、それが宗教的意義を有するものであるという意識を大なり小なり持たざるを得ないのであり、このことは、本件においても同様というべきである。また、本件においては、県が他の宗教団体の挙行する同種の儀式に対して同様の支出をしたという事実がうかがわれないのであって、県が特定の宗教団体との間にのみ意識的に特別のかかわり合いを持ったことを否定することができない。これらのことからすれば、地方公共団体が特定の宗教団体に対してのみ本件のような形で特別のかかわり合いを持つことは、一般人に対して、県が当該特定の宗教団体を特別に支援しており、それらの宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすものといわざるを得ない。
Yらは、本件支出は、遺族援護行政の一環として、戦没者の慰霊及び遺族の慰謝という世俗的な目的で行われた社会的儀礼にすぎないものであるから、憲法に違反しないと主張する。確かに、靖國神社及び護國神社に祭られている祭神の多くは第二次大戦の戦没者であって、その遺族を始めとする愛媛県民のうちの相当数の者が、県が公の立場において靖國神社等に祭られている戦没者の慰霊を行うことを望んでおり、そのうちには、必ずしも戦没者を祭神として信仰の対象としているからではなく、故人をしのぶ心情からそのように望んでいる者もいることは、これを肯認することができる。そのような希望にこたえるという側面においては、本件の玉串料等の奉納に儀礼的な意味合いがあることも否定できない。しかしながら、明治維新以降国家と神道が密接に結び付き種々の弊害を生じたことにかんがみ政教分離規定を設けるに至ったなど前記の憲法制定の経緯に照らせば、たとえ相当数の者がそれを望んでいるとしても、そのことのゆえに、地方公共団体と特定の宗教とのかかわり合いが、相当とされる限度を超えないものとして憲法上許されることになるとはいえない。戦没者の慰霊及び遺族の慰謝ということ自体は、本件のように特定の宗教と特別のかかわり合いを持つ形でなくてもこれを行うことができると考えられるし、神社の挙行する恒例祭に際して玉串料等を奉納することが、慣習化した社会的儀礼にすぎないものになっているとも認められないことは、前記説示のとおりである。ちなみに、神社に対する玉串料等の奉納が故人の葬礼に際して香典を贈ることとの対比で論じられることがあるが、香典は、故人に対する哀悼の意と遺族に対する弔意を表するために遺族に対して贈られ、その葬礼儀式を執り行っている宗教家ないし宗教団体を援助するためのものではないと一般に理解されており、これと宗教団体の行う祭祀に際して宗教団体自体に対して玉串料等を奉納することとでは、一般人の評価において、全く異なるものがあるといわなければならない。また、Yらは、玉串料等の奉納は、神社仏閣を訪れた際にさい銭を投ずることと同様のものであるとも主張するが、地方公共団体の名を示して行う玉串料等の奉納と一般にはその名を表示せずに行うさい銭の奉納とでは、その社会的意味を同一に論じられないことは、おのずから明らかである。そうであれば、本件玉串料等の奉納は、たとえそれが戦没者の慰霊及びその遺族の慰謝を直接の目的としてされたものであったとしても、世俗的目的で行われた社会的儀礼にすぎないものとして憲法に違反しないということはできない。
以上の事情を総合的に考慮して判断すれば、県が本件玉串料等を靖國神社又は護國神社に前記のとおり奉納したことは、その目的が宗教的意義を持つことを免れず、その効果が特定の宗教に対する援助、助長、促進になると認めるべきであり、これによってもたらされる県と靖國神社等とのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものであって、憲法20条3項の禁止する宗教的活動に当たると解するのが相当である。そうすると、本件支出は、同項の禁止する宗教的活動を行うためにしたものとして、違法というべきである。」
過去問・解説
(H19 司法 第6問 エ)
神社自体がその境内において挙行する恒例の祭祀に際して地方公共団体が玉串料等を奉納することは、建築主が主催して建築現場において土地の平安堅固、工事の無事安全等を祈願するために行う儀式である起工式の場合とは異なり、既に慣習化した社会的儀礼にすぎないものになっているとはいえない。
(H23 司法 第6問 イ)
靖国神社及び護国神社は、憲法第89条にいう「宗教上の組織若しくは団体」に該当することは明らかであり、国又は機関が靖国神社や護国神社に玉串料等として公金を支出すれば、直ちに違憲となる。
(正答) ✕
(解説)
愛媛玉串科事件判決(最大判平9.4.2)は、「靖國神社及び護國神社は憲法89条にいう宗教上の組織又は団体に当たることが明らかである」とした上で、先行する憲法20条3項違反の判断を流用することで「以上に判示したところからすると、本件玉串料等を靖國神社又は護國神社に前記のとおり奉納したことによってもたらされる県と靖國神社等とのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと解されるのであるから、本件支出は、同条の禁止する公金の支出に当たり、違法というべきである。」と述べている。したがって、「宗教上の組織若しくは団体」に対する公金の支出であっても、国又はその機関と宗教とのかかわり合いが「我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるもの」でなければ、憲法89条前段に違反しない。
(H27 予備 第3問 イ)
地方公共団体が、神社が挙行した恒例の宗教上の祭祀に際して公金を支出しても、相当数の者が社会的儀礼として行われることを望んでいれば、特定の宗教団体とのかかわり合いが相当とされる程度を超えることにはならない。
(正答) ✕
(解説)
愛媛玉串科事件判決(最大判平9.4.2)は、「Yらは、本件支出は、遺族援護行政の一環として、戦没者の慰霊及び遺族の慰謝という世俗的な目的で行われた社会的儀礼にすぎないものであるから、憲法に違反しないと主張する。確かに、靖國神社及び護國神社に祭られている祭神の多くは第二次大戦の戦没者であって、その遺族を始めとする愛媛県民のうちの相当数の者が、県が公の立場において靖國神社等に祭られている戦没者の慰霊を行うことを望んでおり、そのうちには、必ずしも戦没者を祭神として信仰の対象としているからではなく、故人をしのぶ心情からそのように望んでいる者もいることは、これを肯認することができる。そのような希望にこたえるという側面においては、本件の玉串料等の奉納に儀礼的な意味合いがあることも否定できない。しかしながら、明治維新以降国家と神道が密接に結び付き種々の弊害を生じたことにかんがみ政教分離規定を設けるに至ったなど前記の憲法制定の経緯に照らせば、たとえ相当数の者がそれを望んでいるとしても、そのことのゆえに、地方公共団体と特定の宗教とのかかわり合いが、相当とされる限度を超えないものとして憲法上許されることになるとはいえない。」としている。
(R2 司法 第5問 イ)
憲法第20条第3項の禁止する「宗教的活動」とは、国及びその機関と宗教とのかかわり合いが相当とされる限度を超え、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうのであり、靖国神社の祭礼に際し、知事が玉串料として公金を支出して奉納した行為は、たとえそれが戦没者の慰霊及びその遺族の慰謝を直接の目的としてされたものであったとしても、これに該当する。
(正答) 〇
(解説)
愛媛玉串科事件判決(最大判平9.4.2)は、「憲法20条3項にいう宗教的活動とは、およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いを持つすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。」としている。したがって、本肢前段は正しい。
また、本判決は、「戦没者の慰霊及び遺族の慰謝ということ自体は、本件のように特定の宗教と特別のかかわり合いを持つ形でなくてもこれを行うことができると考えられるし、神社の挙行する恒例祭に際して玉串料等を奉納することが、慣習化した社会的儀礼にすぎないものになっているとも認められないことは、前記説示のとおりである。…そうであれば、本件玉串料等の奉納は、たとえそれが戦没者の慰霊及びその遺族の慰謝を直接の目的としてされたものであったとしても、世俗的目的で行われた社会的儀礼にすぎないものとして憲法に違反しないということはできない。」としている。したがって、本肢後段も正しい。
鹿児島大嘗祭訴訟 最一小判平成14年7月11日
概要
判例
判旨:「憲法20条3項にいう宗教的活動とは、およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いを持つすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが上記にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。そして、ある行為が上記にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念にしたがって、客観的に判断しなければならない…。
…大嘗祭は、天皇が皇祖及び天神地祇に対して安寧と五穀豊穣等を感謝するとともに国家や国民のために安寧と五穀豊穣等を祈念する儀式であり、神道施設が設置された大嘗宮において、神道の儀式にのっとり行われたというのであるから、鹿児島県知事である被上告人がこれに参列し拝礼した行為は、宗教とかかわり合いを持つものである。しかしながら、…大嘗祭は、7世紀以降、一時中断された時期はあるものの、皇位継承の際に通常行われてきた皇室の重要な伝統儀式である、被上告人は、宮内庁から案内を受け、三権の長、国務大臣、各地方公共団体の代表等と共に大嘗祭の一部を構成する悠紀殿供饌の儀に参列して拝礼したにとどまる、大嘗祭への被上告人の参列は、地方公共団体の長という公職にある者の社会的儀礼として、天皇の即位に伴う皇室の伝統儀式に際し、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇の即位に祝意を表する目的で行われたものであるというのである。これらの諸点にかんがみると、被上告人の大嘗祭への参列の目的は、天皇の即位に伴う皇室の伝統儀式に際し、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇に対する社会的儀礼を尽くすものであり、その効果も、特定の宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるようなものではないと認められる。したがって、被上告人の大嘗祭への参列は、宗教とのかかわり合いの程度が我が国の社会的、文化的諸条件に照らし、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるものとは認められず、憲法上の政教分離原則及びそれに基づく政教分離規定に違反するものではないと解するのが相当である。」
過去問・解説
(H23 司法 第6問 ア)
県知事の大嘗祭への参列は、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇に対する社会的儀礼を尽くすことを目的とするものであり、その効果も、特定の宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等にはならず、政教分離規定に反しない。
(R2 司法 第5問 ウ)
天皇の即位に伴って行われる皇室の儀式である大嘗祭に際し、知事が公費で出張した上、これに参列し拝礼した行為は、地方公共団体の長という公職にある者の社会的儀礼として、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇の即位に祝意を表する目的で行われたものにすぎず、宗教とかかわり合いのある行為とはいえないから、憲法第20条第3項の禁止する「宗教的活動」には該当しない。
(正答) 〇
(解説)
鹿児島大嘗祭訴訟判決(最判平12.2.29)は、「被上告人の大嘗祭への参列の目的は、天皇の即位に伴う皇室の伝統儀式に際し、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇に対する社会的儀礼を尽くすものであり、その効果も、特定の宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるようなものではないと認められる。したがって、被上告人の大嘗祭への参列は、宗教とのかかわり合いの程度が我が国の社会的、文化的諸条件に照らし、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるものとは認められず、憲法上の政教分離原則及びそれに基づく政教分離規定に違反するものではないと解するのが相当である。」としている。このように、本判決は、本肢の行為について、それが宗教とのかかわり合いのある行為に当たることを前提として、目的効果基準を用いて「相当とされる限度を超えるもの」であるか否かを判断している。したがって、本肢は、「宗教とかかわり合いのある行為とはいえない」としている点において、誤っている。
首相靖国神社参拝事件 最二小判平成18年6月23日
概要
判例
判旨:「Xらが侵害されたと主張する権利ないし利益が法律上の保護になじむものであるか否かについて考える。人が神社に参拝する行為自体は、他人の信仰生活等に対して圧迫、干渉を加えるような性質のものではないから、他人が特定の神社に参拝することによって、自己の心情ないし宗教上の感情が害されたとし、不快の念を抱いたとしても、これを被侵害利益として、直ちに損害賠償を求めることはできないと解するのが相当である。Xらの主張する権利ないし利益も、上記のような心情ないし宗教上の感情と異なるものではないというべきである。このことは、内閣総理大臣の地位にある者が靖國神社を参拝した場合においても異なるものではないから、本件参拝によってXらに損害賠償の対象となり得るような法的利益の侵害があったとはいえない。したがって、Xらの損害賠償請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がないものとして棄却すべきである…。」
1 本件訴訟は、Xらのもつ思想、信条、信仰に照らせば、戦没者を祭神とする神社に内閣総理大臣が参拝することは、Xらの心の平穏を害し不快の念を抱かせるものであるとして、それによって受けた精神的苦痛を理由に損害賠償を請求するなどというものである。
2 言うまでもなく、他人の行為によって精神的苦痛を受けたと感じたとしても、そのすべてが法的に保護され、賠償の対象となるわけではない。何人も他人の行為によって心の平穏を害され、不快の念を抱くことがあったとしても、それが当該行為をした人のもつ思想、信条、信仰等の自由の享受の結果である限りそれを認容すべきものであって、当該行為が過度にわたった結果それぞれのもつ自由を侵害したといえるものとなったとき、初めて法的保護を求め得るものとなるのである。
本件でXらが問題にするのは他人の神社への参拝行為である。他人の参拝行為は、それがどのような形態のものであれ、その人の自由に属することであって、そのことによって心の平穏を害され、不快の念をもつ者があったとしてもそのことによって他人の自由を侵害するというものではなく、これを損害賠償の対象とすることは、かえって当該参拝をした者の自由を妨げることとなり、これを認める余地はないのである。
3 もっとも、Xらは、本件参拝は私人の行為ではなく内閣総理大臣によって行われたものであり、そのことによって心の平穏を害され、不快感を抱いた者は、その行為の違法性に照らせば、法的利益が侵害されたものと解すべきだというのである。
確かに、国民はそれぞれが思想、信条、信仰の自由をもっており、他人のもつ自由な行動によって心の平穏を害され、不快の念を抱くことになったとしてもそれはそれぞれの国民のもつ自由を享受した結果として相互に寛容さが求められるのに対し、国はそのような自由をもつものではないから、国民は国の行為に対しては格別の寛容さが求められることはないのである。そして、我が国憲法は政教分離を規定し、国及びその機関に対しいかなる宗教活動も禁止しており、この規定は、それがおかれた歴史的沿革に照らして厳格に解されるべきものであると考える。
しかしながら、この憲法の規定は国家と宗教とを分離するという制度自体の保障を規定したものであって、直接に国民の権利ないし自由の保障を規定したものではないから、これに反する行為があったことから直ちに国民の権利ないし法的利益が侵害されたものということはできないのである。
この憲法の規定は信教の自由を保障するためのものであり、国やその機関が宗教的活動をすることは、その宗教と異なる宗教を信じる者に心理的圧迫を加えることからこれを阻止するという意味をもっているとしても、国の行為によってXらが受けたという心理的圧迫は不特定多数の国民に及ぶという性質のものにとどまるものといわざるを得ず、それは法的保護の対象になるものとはいえないのである。
4 私は、例えば緊密な生活を共に過ごした人への敬慕の念から、その人の意思を尊重したり、その人の霊をどのように祀るかについて各人の抱く感情などは法的に保護されるべき利益となり得るものであると考える。したがって、何人も公権力が自己の信じる宗教によって静謐な環境の下で特別の関係のある故人の霊を追悼することを妨げたり、その意に反して別の宗旨で故人を追悼することを拒否することができるのであって、それが行われたとすれば、強制を伴うものでなくても法的保護を求め得るものと考える。
そして、このような宗教的感情は平均人の感受性によって認容を迫られるものではなく、国及びその機関の行為によってそれが侵害されたときには、その被害について損害賠償を請求し得るものと考える。しかしながら、Xらは本訴においてそのような個別的利益を主張しているものではないのである。
5 また、Xらは、内閣総理大臣が宗教的活動を行うことは、それによって国家がその宗教と特別な結び付きをもつことになる結果、これと異なる宗教や信条をもつ者は心理的圧迫を受けることになり、その違法性は重大であると主張し、被侵害利益は加害行為と相関的に考えるべきであるから違法性の重大である場合にはXらの法的保護は侵害されたとみるべきだというのである。しかしながら、特定の宗教施設への参拝という行為により、内心の静穏な感情を害されないという利益は法的に保護されたものということはできない性質のものであるから、侵害行為の態様いかんにかかわらず、Xらの法的利益が侵害されたということはできないのである。
そうである以上、本件参拝が政教分離に反する違憲なものであるかどうかを問うまでもなく、そのことによってXらに侵害された利益を認めることはできないのであるから本件請求は失当である。」(滝井繁男裁判官の補足意見)
過去問・解説
(R1 司法 第4問 ア)
内閣総理大臣が靖国神社を参拝する行為は、他の宗教を信じる者に心理的圧迫を加えることになるので、これにより自己の心情ないし宗教上の感情が害され不快の念を抱いた者は、国の宗教活動を禁じた憲法第20条第3項の定める政教分離原則に違反することを理由として国に損害賠償を請求することができる。
(正答) ✕
(解説)
首相靖国神社参拝事件判決(最判平18.6.23)は、「人が神社に参拝する行為自体は、他人の信仰生活等に対して圧迫、干渉を加えるような性質のものではないから、他人が特定の神社に参拝することによって、自己の心情ないし宗教上の感情が害されたとし、不快の念を抱いたとしても、これを被侵害利益として、直ちに損害賠償を求めることはできないと解するのが相当である。」とした上で、「Xらの主張する権利ないし利益も、上記のような心情ないし宗教上の感情と異なるものではないというべきである。このことは、内閣総理大臣の地位にある者が靖國神社を参拝した場合においても異なるものではないから、本件参拝によってXらに損害賠償の対象となり得るような法的利益の侵害があったとはいえない。したがって、Xらの損害賠償請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がないものとして棄却すべきである…。」としている。
空知太神社事件 最大判平成22年1月20日
概要
〇市が市有地を氏子集団が管理している神社物件のために無償で提供している行為は、憲法89条前段の禁止する公の財産の利用提供に当たり、ひいては憲法20条1項後段の禁止する宗教団体に対する特権の付与にも該当するから、違憲である。
〇市長において上記行為による違憲状態を解消するために他に選択することのできる合理的で現実的な手段が存在する場合には、市長が神社物件の撤去及び土地明渡請求という手段を講じていないことは、財産管理上直ちに違法との評価を受けるものではない。
判例
砂川市の住民は、砂川市の市有地である本件土地の無償提供行為が政教分離原則に違反する行為であり、敷地の使用貸借契約を解除し本件各施設の撤去及び本件土地明渡しを請求しないことが違法に財産の管理を怠るものであるとして、地方自治法242条の2第1項3号に基づく怠る事実の違法確認を求めて出訴した。
②「本件は、被上告人らが地方自治法242条の2第1項3号に基づいて提起した住民訴訟であり、被上告人らは、前記のとおり政教分離原則との関係で問題とされざるを得ない状態となっている本件各土地について、上告人がそのような状態を解消するため使用貸借契約を解除し、神社施設の撤去を求める措置を執らないことが財産管理上違法であると主張する。
本件において、当事者は、上記のような観点から、本件利用提供行為の違憲性を解消するための他の手段が存在するか否かに関する主張をしておらず、原審も当事者に対してそのような手段の有無に関し釈明権を行使した形跡はうかがわれない。しかし、本件利用提供行為の違憲性を解消するための他の手段があり得ることは、当事者の主張の有無にかかわらず明らかというべきである。また、原審は、本件と併行して、本件と当事者がほぼ共通する市内の別の神社(T神社)をめぐる住民訴訟を審理しており、同訴訟においては、市有地上に神社施設が存在する状態を解消するため、市が、神社敷地として無償で使用させていた市有地を町内会に譲与したことの憲法適合性が争われていたところ、第1、2審とも、それを合憲と判断し、当裁判所もそれを合憲と判断するものである(最高裁平成19年(行ツ)第334号)。原審は、上記訴訟の審理を通じて、本件においてもそのような他の手段が存在する可能性があり、上告人がこうした手段を講ずる場合があることを職務上知っていたものである。
そうすると、原審が上告人において本件神社物件の撤去及び土地明渡請求をすることを怠る事実を違法と判断する以上は、原審において、本件利用提供行為の違憲性を解消するための他の合理的で現実的な手段が存在するか否かについて適切に審理判断するか、当事者に対して釈明権を行使する必要があったというべきである。原審が、この点につき何ら審理判断せず、上記釈明権を行使することもないまま、上記の怠る事実を違法と判断したことには、怠る事実の適否に関する審理を尽くさなかった結果、法令の解釈適用を誤ったか、釈明権の行使を怠った違法があるものというほかない。」
補足意見:「私は、多数意見に賛成するが、本件利用提供行為が政教分離原則に違反すると考えられることにつき、以下若干の補足をしておくこととしたい。
1 国又は公共団体が宗教に関係する何らかの活動(不作為をも含む。)をする場合に、それが日本国憲法の定める政教分離原則に違反しないかどうかを判断するに際しての審査基準として、過去の当審判例が採用してきたのは、いわゆる目的効果基準であって、本件においてもこの事実を無視するわけには行かない。ただ、この基準の採用の是非及びその適用の仕方については、当審の従来の判例に反対する見解も学説中にはかなり根強く存在し、また、過去の当審判決においても一度ならず反対意見が述べられてきたところでもあるから、このことを踏まえた上で、現在の時点でこの問題をどう考えるかについては、改めて慎重な検討をしておかなければならない。
この基準を採用することへの批判としては、周知のように、当審においてこの基準が最初に採用された「津地鎮祭訴訟判決」(最高裁昭和46年(行ツ)第69号同52年7月13日大法廷判決・民集31巻4号533頁)における5裁判官の反対意見と並び、「愛媛玉串料訴訟判決」(最高裁平成4年(行ツ)第156号同9年4月2日大法廷判決・民集51巻4号1673頁)における高橋、尾崎両裁判官の意見がある。とりわけ、尾崎意見における指摘、すなわち、日本国憲法の政教分離規定の趣旨につき津地鎮祭訴訟判決において多数意見が出発点とした「憲法は、信教の自由を無条件に保障し、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けたものであり、これを設けるに当たっては、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたものである」という考え方を前提とすれば、「国家と宗教との完全分離を原則とし、完全分離が不可能であり、かつ、分離に固執すると不合理な結果を招く場合に限って、例外的に国家と宗教とのかかわり合いが憲法上許容されるとすべきもの」と考えられる、という指摘については、私もまた、これが本来筋の通った理論的帰結であると考える。これに対して、これまでの当審判例の多数意見が採用してきた上記の目的効果基準によれば、憲法上の政教分離原則は「国家が宗教とのかかわり合いを持つことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果に鑑み、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超える場合に(初めて)これを許さないとするもの」であるということになるが(括弧内は藤田による補足)、このように、いわば原則と例外を逆転させたかにも見える結論を導くについて、従来の多数意見は必ずしも充分な説明をしておらず、そこには論理の飛躍がある、という上記の尾崎意見の指摘には、首肯できるものがあるように思われる。
ただ、目的効果基準の採用に対するこのような反対意見にあっても、国家と宗教の完全な分離に対する例外が許容されること自体が全く否定されるものではないのであり、また、これらの見解において例外が認められる「完全分離が不可能であり、かつ分離に固執すると不合理な結果を招く場合」に当たるか否かを検討するに際して、目的・効果についての考慮を全くせずして最終的判断を下せるともいい切れないように思われるのであって、問題は結局のところ、「そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超える」か否かの判断に際しての「国家の宗教的中立性」の評価に関する基本的姿勢ないし出発点の如何に懸ることになるともいうことができよう。このように考えるならば、仮に、理論的には上記意見に理由があると考えるとしても、本件において、敢えて目的効果基準の採用それ自体に対しこれを全面的に否定するまでの必要は無いものと考える。但し、ここにいう目的効果基準の具体的な内容あるいはその適用の在り方については、慎重な配慮が必要なのであって、当該事案の内容を十分比較検討することなく、過去における当審判例上の文言を金科玉条として引用し、機械的に結論を導くようなことをしてはならない。こういった見地から、本件において注意しなければならないのは、例えば以下のような点である。
2 本件において合憲性が問われているのは、多数意見にも述べられているように、取り立てて宗教外の意義を持つものではない純粋の神道施設につき、地方公共団体が公有地を単純にその敷地として提供しているという事実である。私の見るところ、過去の当審判例上、目的効果基準が機能せしめられてきたのは、問題となる行為等においていわば「宗教性」と「世俗性」とが同居しておりその優劣が微妙であるときに、そのどちらを重視するかの決定に際してであって(例えば、津地鎮祭訴訟、箕面忠魂碑訴訟等は、少なくとも多数意見の判断によれば、正にこのようなケースであった。)、明確に宗教性のみを持った行為につき、更に、それが如何なる目的をもって行われたかが問われる場面においてではなかったということができる(例えば、公的な立場で寺社に参拝あるいは寄進をしながら、それは、専ら国家公安・国民の安全を願う目的によるものであって、当該宗教を特に優遇しようという趣旨からではないから、憲法にいう「宗教的活動」ではない、というような弁明を行うことは、上記目的効果基準の下においても到底許されるものとはいえない。例えば愛媛玉串料訴訟判決は、このことを示すものであるともいえよう。)。
本件の場合、原審判決及び多数意見が指摘するとおり、本件における神社施設は、これといった文化財や史跡等としての世俗的意義を有するものではなく、一義的に宗教施設(神道施設)であって、そこで行われる行事もまた宗教的な行事であることは明らかである(五穀豊穣等を祈るというのは、正に神事の目的それ自体であって、これをもって「世俗的目的」とすることは、すなわち「神道は宗教に非ず」というに等しい。)。従って、本件利用提供行為が専ら特定の純粋な宗教施設及び行事(要するに「神社」)を利する結果をもたらしていること自体は、これを否定することができないのであって、地鎮祭における起工式(津地鎮祭訴訟)、忠魂碑の移設のための代替地貸与並びに慰霊祭への出席行為(箕面忠魂碑訴訟)、さらには地蔵像の移設のための市有地提供行為等(大阪地蔵像訴訟)とは、状況が明らかに異なるといわなければならない(これらのケースにおいては、少なくとも多数説は、地鎮祭、忠魂碑、地蔵像等の純粋な宗教性を否定し、何らかの意味での世俗性を認めることから、それぞれ合憲判断をしたものである。)。その意味においては、本件における憲法問題は、本来、目的効果基準の適用の可否が問われる以前の問題であるというべきである。
3 もっとも、原審認定事実等によれば、本件神社は、それ自体としては明らかに純粋な神道施設であると認められるものの、他方において、その外観、日々の宗教的活動の態様等からして、さほど宗教施設としての存在感の大きいものであるわけではなく、それゆえにこそ、市においてもまた、さして憲法上の疑義を抱くこともなく本件利用提供行為を続けてきたのであるし、また、被上告人らが問題提起をするまでは、他の市民の間において殊更にその違憲性が問題視されることも無かった、というのが実態であったようにもうかがわれる。従って、仮にこの点を重視するならば、少なくとも、本件利用提供行為が、直ちに他の宗教あるいはその信者らに対する圧迫ないし脅威となるとまではいえず(現に、例えば、本件氏子集団の役員らはいずれも仏教徒であることが認定されている。)、これをもって敢えて憲法違反を問うまでのことはないのではないかという疑問も抱かれ得るところであろう。そして、全国において少なからず存在すると考えられる公有地上の神社施設につき、かなりの数のものは、正にこれと類似した状況にあるのではないか、とも推測されるのである。このように、本件における固有の問題は、一義的に特定の宗教のための施設であれば(すなわち問題とすべき「世俗性」が認められない以上)地域におけるその存在感がさして大きなものではない(あるいはむしろ希薄ですらある)ような場合であっても、そのような施設に対して行われる地方公共団体の土地利用提供行為をもって、当然に憲法89条違反といい得るか、という点にあるというべきであろう。
ところで、上記のような状況は、その教義上排他性の比較的希薄な伝統的神道の特色及び宗教意識の比較的薄い国民性等によってもたらされている面が強いように思われるが、いうまでもなく、政教分離の問題は、対象となる宗教の教義の内容如何とは明確に区別されるべき問題であるし、また、ある宗教を信じあるいは受容している国民の数ないし割合が多いか否かが政教分離の問題と結び付けられるべきものではないことも、明らかであるといわなければならない。憲法89条が、過去の我が国における国家神道下で他宗教が弾圧された現実の体験に鑑み、個々人の信教の自由の保障を全うするため政教分離を制度的に(制度として)保障したとされる趣旨及び経緯を考えるとき、同条の定める政教分離原則に違反するか否かの問題は、必ずしも、問題とされている行為によって個々人の信教の自由が現実に侵害されているか否かの事実によってのみ判断されるべきものではないのであって、多数意見が本件利用提供行為につき「一般人の目から見て、市が特定の宗教に対して特別の便益を提供し、これを援助していると評価されてもやむを得ないものである」と述べるのは、このような意味において正当というべきである。
4 なお、本件において違憲性が問われているのは、直接には、市が公有地上にある本件神社施設を撤去しないという不作為についてである(当初市が神社施設の存する本件土地を取得したこと自体が違憲であるというならば、その行為自体が無効であって、そもそも本件土地は公有地とは認められないということにもなりかねないが、被上告人(原告)らはこのような主張をするものではない。)。この場合、その不作為を直ちに解消することが期待し得ないような特別の事情(例えば、施設の撤去自体が他方で信教の自由に極めて重大な打撃を与える結果となることが見込まれるとか、敷地の民有化に向け可能な限りの努力をしてきたものの、歴史的経緯等種々の原因から未だ成功していない等々の事情が考えられようか。)がある場合に、現に公有地上に神社施設が存在するという事実が残っていること自体をもって直ちに違憲というべきか否かは、なお検討の余地がある問題であるといえなくはなかろう。しかし、本件において、上告人(被告)はこのような特別の事情の存在については一切主張・立証するところがなく、むしろ、そういった事情の存在の有無を問うまでもなく本件利用提供行為は合憲であるとの前提に立っていることは明らかであるから、この点については、原審の釈明義務違反を問うまでもなく、多数意見のように、本件利用提供行為が憲法89条に違反すると判断されるのもやむを得ないところといわなければならない。」(藤田宙靖裁判官の補足意見)
過去問・解説
(H24 司法 第2問 ア)
国公有地が無償で宗教的施設の敷地としての用に供されるといっても、当該施設の性格や来歴、無償提供に至る経緯、利用の態様には様々なものがあり得るのであって、これらの事情のいかんが政教分離原則との関係を考えるに当たって重要な考慮要素とされるべきである。
(H24 司法 第2問 イ)
無償提供された国公有地上に存在する宗教的施設の宗教性を判断するに当たっては、当該宗教的施設に対する一般人の評価を抽象的に観念するのではなく、当該施設が存在する地元住民の一般的評価を検討することが重要である。
(正答) ✕
(解説)
空知太事件判決(最大判平22.1.20)は、「そうすると、国公有地が無償で宗教的施設の敷地としての用に供されている状態が、前記の見地から、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えて憲法89条に違反するか否かを判断するに当たっては、当該宗教的施設の性格、当該土地が無償で当該施設の敷地としての用に供されるに至った経緯、当該無償提供の態様、これらに対する一般人の評価等、諸般の事情を考慮し、社会通念に照らして総合的に判断すべきものと解するのが相当である。」としているから、当該宗教的施設が存在する地元住民の一般的評価ではなく、「一般人の評価」を検討することが重要である。
(H24 司法 第2問 ウ)
宗教的施設に対する国公有地の無償提供が憲法第89条に違反し違憲と判断される場合には、このような違憲状態を解消するための手段として、使用貸借契約の解除までは必要ないが、当該土地上に存在する宗教的施設の撤去が必要である。
(正答) ✕
(解説)
空知太事件判決(最大判平22.1.20)は、「本件は、被上告人らが地方自治法242条の2第1項3号に基づいて提起した住民訴訟であり、被上告人らは、前記のとおり政教分離原則との関係で問題とされざるを得ない状態となっている本件各土地について、上告人がそのような状態を解消するため使用貸借契約を解除し、神社施設の撤去を求める措置を執らないことが財産管理上違法であると主張する。…しかしながら、これを違憲とする理由は、判示のような施設の下に一定の行事を行っている本件氏子集団に対し、長期にわたって無償で土地を提供していることによるものであって、このような違憲状態の解消には、神社施設を撤去し土地を明け渡す以外にも適切な手段があり得るというべきである。」としている。
(H29 司法 第5問 ア)
国公有地が特定の宗教的施設の敷地として無償提供された場合に政教分離原則に違反するか否かを判断するに当たり、当該宗教的施設の性格、当該無償提供に至る経緯及びその提供の態様については考慮に入れるべきであるが、これらに対する一般人の評価についてまで考慮に入れることは、多数者による少数者の宗教的抑圧につながるおそれがあるので相当ではない。
(R2 司法 第16問 イ)
最高裁判所は、市有地を無償で神社施設の敷地利用に供していた行為が政教分離原則に違反するかが問われた空知太神社訴訟(最大判平成22年1月20日)において、同じ市による別の神社敷地の譲与行為に対する合憲判断と異なり、当該事案における敷地利用提供行為については憲法第89条及び第20条第1項後段に違反すると判示した。
(R6 司法 第4問 ウ)
国公有地が無償で宗教的施設の敷地としての用に供されている状態が、政教分離原則に反するか否かを判断するに当たっては、当該宗教的施設の性格、当該土地が無償で当該施設の敷地としての用に供されるに至った経緯、当該無償提供の態様等の客観的な事情を総合的に考慮して判断すべきであるが、これらに対する一般人の評価等の主観的な事情については、判断の基礎とすべきでない。
富平神社事件 最大判平成22年1月20日
概要
判例
過去問・解説
(H27 予備 第3問 ア)
市有地が神社の敷地となっており、政教分離原則に違反するおそれがあったことから、その状態を解消するために、良好な地域社会の維持及び形成に資することを目的とした地域的活動を行う町内会組織に当該土地を無償譲渡することは、憲法第89条に違反しない。
(正答) 〇
(解説)
富平神社事件判決(最大判平22.1.20)は、「本件各土地が市の所有に帰した経緯についてはやむを得ない面があるとはいえ、上記行為をそのまま継続することは、一般人の目から見て、市が特定の宗教に対して特別の便益を提供し、これを援助していると評価されるおそれがあったものということができる。本件譲与は、市が、監査委員の指摘を考慮し、上記のような憲法89条及び20条1項後段の趣旨に適合しないおそれのある状態を是正解消するために行ったものである。」とした上で、「本件譲与は、市と本件神社ないし神道との間に、我が国の社会的、文化的諸条件に照らし、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるかかわり合いをもたらすものということはできず、憲法20条3項、89条に違反するものではないと解するのが相当である。」としている。
(H29 司法 第5問 ウ)
地方公共団体が町内会に対し特定の宗教的施設の敷地として公有地を無償で利用に供してきたところ、当該行為が政教分離原則に違反するおそれがあるためにこれを是正解消する必要がある一方で、当該宗教的施設を撤去させることを図るとすると、信教の自由に重大な不利益を及ぼしかねないことなどの事情がある場合には、当該町内会に当該公有地を譲与したとしても直ちに政教分離原則に違反するとはいえない。
(正答) 〇
(解説)
富平神社事件判決(最大判平22.1.20)は、「仮に市が本件神社との関係を解消するために本件神社施設を撤去させることを図るとすれば、本件各土地の寄附後も上記地域住民の集団によって守り伝えられてきた宗教的活動を著しく困難なものにし、その信教の自由に重大な不利益を及ぼすことになる。」ことを理由に、「本件譲与は、…市と本件神社とのかかわり合いを是正解消する手段として相当性を欠くということもできない…。以上のような事情を考慮し、社会通念に照らして総合的に判断すると、本件譲与は、市と本件神社ないし神道との間に、我が国の社会的、文化的諸条件に照らし、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるかかわり合いをもたらすものということはできず、憲法20条3項、89条に違反するものではないと解するのが相当である…。」としている。
自衛官合祀訴訟 最大判昭和63年6月1日
概要
②死去した配偶者の追慕、慰霊等に関して私人がした宗教上の行為によって信仰生活の静謐が害されたとしても、それが信教の自由の侵害に当たり、その態様、程度が社会的に許容し得る限度を超える場合でない限り、法的利益が侵害されたとはいえない。
判例
判旨:①「本件合祀申請に至る過程において県隊友会に協力してした地連職員の行為が、憲法20条3項にいう宗教的活動に当たるか否かを検討する。右条項にいう宗教的活動とは、宗教とかかわり合いをもつすべての行為を指すものではなく、当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいい、ある行為が宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念にしたがって、客観的に判断しなければならないものである…。合祀は神社の自主的な判断に基づいて決められる事柄であることは前記のとおりであって、何人かが神社に対し合祀を求めることは、合祀のための必要な前提をなすものではなく、本件において県護国神社としては既に昭和四六年秋には殉職自衛隊員を合祀する方針を基本的に決定していたことは原審の確定するところである。してみれば、本件合祀申請という行為は、殉職自衛隊員の氏名とその殉職の事実を県護国神社に対し明らかにし、合祀の希望を表明したものであって、宗教とかかわり合いをもつ行為であるが、合祀の前提としての法的意味をもつものではない。そして、本件合祀申請に至る過程において県隊友会に協力してした地連職員の具体的行為は前記のとおりであるところ、その宗教とのかかわり合いは間接的であり、その意図、目的も、合祀実現により自衛隊員の社会的地位の向上と士気の高揚を図ることにあつたと推認されることは前記のとおりであるから、どちらかといえばその宗教的意識も希薄であったといわなければならないのみならず、その行為の態様からして、国又はその機関として特定の宗教への関心を呼び起こし、あるいはこれを援助、助長、促進し、又は他の宗教に圧迫、干渉を加えるような効果をもつものと一般人から評価される行為とは認め難い。したがって、地連職員の行為が宗教とかかわり合いをもつものであることは否定できないが、これをもって宗教的活動とまではいうことはできないものといわなければならない。」
②「私人相互間において憲法20条1項前段及び同条2項によって保障される信教の自由の侵害があり、その態様、程度が社会的に許容し得る限度を超えるときは、場合によっては、私的自治に対する一般的制限規定である民法1条、90条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用によって、法的保護が図られるべきである。しかし、人が自己の信仰生活の静謐を他者の宗教上の行為によって害されたとし、そのことに不快の感情を持ち、そのようなことがないよう望むことのあるのは、その心情として当然であるとしても、かかる宗教上の感情を被侵害利益として、直ちに損害賠償を請求し、又は差止めを請求するなどの法的救済を求めることができるとするならば、かえつて相手方の信教の自由を妨げる結果となるに至ることは、見易いところである。信教の自由の保障は、何人も自己の信仰と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでない限り寛容であることを要請しているものというべきである。このことは死去した配偶者の追慕、慰霊等に関する場合においても同様である。何人かをその信仰の対象とし、あるいは自己の信仰する宗教により何人かを追慕し、その魂の安らぎを求めるなどの宗教的行為をする自由は、誰にでも保障されているからである。原審が宗教上の人格権であるとする静謐な宗教的環境の下で信仰生活を送るべき利益なるものは、これを直ちに法的利益として認めることができない性質のものである。以上の見解にたつて本件をみると、県護国神社による孝文の合祀は、まさしく信教の自由により保障されているところとして同神社が自由になし得るところであり、それ自体は何人の法的利益をも侵害するものではない。そして、被上告人が県護国神社の宗教行事への参加を強制されたことのないことは、原審の確定するところであり、またその不参加により不利益を受けた事実、そのキリスト教信仰及びその信仰に基づき孝文を記念し追悼することに対し、禁止又は制限はもちろんのこと、圧迫又は干渉が加えられた事実については、被上告人において何ら主張するところがない。…してみれば、被上告人の法的利益は何ら侵害されていないというべきである。」
一 信教の自由と宗教的寛容さについて
…ところで、憲法20条1項前段は、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」とし、他方、同条3項は、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」としているから、国及びその機関を除く何人も宗教的活動をする自由を憲法上保障されているといわなければならない。つまり、宗教法人法2条に「宗教団体」として定義されている「礼拝の施設を備える神社、寺院、教会、修道院その他これらに類する団体」及びこれらの「団体を包括する教派、宗派、教団、教会、修道会、司教区その他これらに類する団体」はもとより、これらに含まれない団体又は個人もひとしく信教の自由を保障されているのである。宗教法人法1条2項は、この趣旨を明らかにして、「憲法で保障された信教の自由は、すべての国政において尊重されなければならない。従つて、この法律のいかなる規定も、個人、集団又は団体が、その保障された自由に基いて、教義をひろめ、儀式行事を行い、その他宗教上の行為を行うことを制限するものと解釈してはならない。」と定めている。このようにして、真の信教の自由は、その歴史的沿革、信者の数の多少その他当該宗教をめぐる諸般の情況のいかんにかかわらず、すべての宗教がその教義をひろめ、儀式行事を行い、その他宗教上の行為を行う自由をひとしく保障されるところに成り立つのであつて、これをその反面からみれば、各宗教には他の宗教が憲法上保障されている宗教上の行為に干渉せず、これを妨げないという寛容さが、憲法上要請されているものということができる。このことは信者においても同様であり、各宗教の信者にも、他の宗教の行う宗教上の行為について、それが宗教団体その他の団体、集団によつて行われるものであれ、その信者によつて行われるものであれ、たとえそれに対し不快感をもつたとしても、これを受忍すべき寛容さが求められているものというべきである。もし逆にこのような不快感を理由に、人格権の侵害があるとし、法的救済を求めることができるとするならば、宗教団体等や信者が行う宗教上の行為、特にその宗教の教義をひろめるため、他の者に対し伝道、布教や宗教教育を行うような行為、あるいは信仰を異にする者のために祈る行為などは、すべて他の宗教の信者から損害賠償や差止めを訴求されるおそれがある行為ということになる。仮に宗教団体等や信者が行うそのような行為は、法的利益の侵害行為ではあるが、その法的利益はそれほど強いものではなく、その侵害行為の違法性も高くないから、相手方が受忍すべき限度内のものというべきで、不法行為は成立しないとの見解に立つとしても、これらの行為が他者に不快感を与えることにより、軽微とはいえその法的利益を侵害するものであるという以上、宗教団体等や信者として本来してはならない行為ということになつてしまうことには変わりはないのである。かくては、特に伝道、布教を活動の中心とする宗教においてその打撃が大きく、憲法が信教の自由を保障している趣旨は、全く没却されるといつて過言ではない。そして、右に述べたように、憲法は、その宗教の我が国における歴史的沿革や信者の多少にかかわらず、どのような宗教に対しても、またどのような宗教を信ずる者に対しても平等に信教の自由を保障しているのであつて、いわゆる宗教的少数者といわれる立場にある者を特別に保護しようとしているものではないから、このような者もその例外ではなく、ひとしくこの寛容さが求められていることはいうまでもない。
さらに、この理は、死去した自己の配偶者や近親者を自己の信仰する宗教以外の宗教で慰霊し、あるいは信仰の対象とする者がある場合でも、同様であり、たとえその宗教上の行為に対し不快感を抱いても、これを受忍すべき寛容さが求められているのである。けだし、信教の自由は、何人に対しても、自己が慰霊の対象として選んだものを自己の信仰する宗教により慰霊し、また自己の信仰の対象として選んだものを信仰し、祈りをささげる自由を保障しているのであり、それは、慰霊や信仰の対象が縁故者であろうとなかろうと同じであるし、また信仰の対象が故人であつても、生存者であつても、さらには人間以外の生物、無生物、天然事象その他何であつても、異なるところはないからである。
なお、ここで故人の近親者間の問題について一言する。信教の自由は、各個人に対し保障されているのであつて、今日においていわゆる家の宗教なるものが存在しないことはいうまでもないし、家族や近親者の間においても、相互に信仰を異にすることもまれではない。現に原審の判示するところによれば、孝文の父之丞が孝文の葬儀を仏式で挙行し、遺骨を仏壇に安置しておいたところ、被上告人は遺骨の一部を帯出した後、これをキリスト教会の納骨堂に納め、同教会の永眠者記念礼拝に出席しているというのであり、また之丞は孝文の合祀を非常にうれしく思い、孝文の弟妹と連名で孝文の合祀について被上告人の希望を容れないで欲しい旨の嘆願書を県隊友会あてに送付しているというのである。故人の追慕、慰霊に関して、近親者のうち特に配偶者の意向を父母又は子の意向に優先させるべき法理は見当たらないし、相互に信仰を異にする近親者が故人の追慕、慰霊に関し他の近親者のとつた宗教上の行為に対する不快感を理由に、相互に法的救済を求めることができるとするならば、真に収拾のつかない事態に立ち至ることが明らかである。近親者相互間においても、互いに寛容さが要請されるのである。
過去問・解説
(H21 司法 第6問 イ)
信教の自由の保障は、何人も他者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでない限り寛容であることを要請しているものというべきである。このことは、死去した配偶者の追慕、慰霊等に関する場合においても同様である。
(H28 司法 第5問 ア)
神社において死者の合祀を行うことが遺族である配偶者の心の静謐を害する場合、その遺族は、静謐な宗教的環境の下で信仰生活を送るべき利益である宗教的人格権を侵害されたと主張して、損害賠償を請求できる。
(正答) ✕
(解説)
自衛官合祀訴訟判決(最大判昭63.6.1)は、「信教の自由の保障は、何人も自己の信仰と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでない限り寛容であることを要請しているものというべきである。このことは死去した配偶者の追慕、慰霊等に関する場合においても同様である。何人かをその信仰の対象とし、あるいは自己の信仰する宗教により何人かを追慕し、その魂の安らぎを求めるなどの宗教的行為をする自由は、誰にでも保障されているからである」とした上で、「原審が宗教上の人格権であるとする静謐な宗教的環境の下で信仰生活を送るべき利益なるものは、これを直ちに法的利益として認めることができない性質のものである。」としているから、静謐な宗教的環境の下で信仰生活を送るべき利益である宗教的人格権なるものは認めていない。
(R1 司法 第4問 イ)
憲法第20条第1項前段及び同条第2項によって保障される信教の自由は、自己の信仰と相容れない信仰を持つ者の信仰に基づく行為に対しても寛容であることを要請するものであり、県護国神社による殉職した自衛官の合祀は、遺族が同神社の宗教行事に参加を強制されるなどの干渉等とならない限り、同神社が自由になし得る。
(R6 司法 第4問 イ)
憲法第20条第1項前段、同条第2項の趣旨に照らせば、宗教上の人格権の一内容として、静謐な環境の下で信仰生活を送る利益が保障される。私的団体が殉職した自衛官を遺族の意思に反して神社に合祀申請した行為は、遺族の信仰生活の静謐を害するが、その侵害の態様や程度が社会的に許容し得る限度を超えておらず、遺族の法的利益が侵害されたとはいえない。
(正答) ✕
(解説)
自衛官合祀訴訟事件判決(最大昭63.6.1)は、「信教の自由の保障は、何人も自己の信仰と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでない限り寛容であることを要請しているものというべきである。」との理由から、「原審が宗教上の人格権であるとする静謐な宗教的環境の下で信仰生活を送るべき利益なるものは、これを直ちに法的利益として認めることができない性質のものである。」としている。
したがって、本肢のうち「憲法第20条第1項前段、同条第2項の趣旨に照らせば、宗教上の人格権の一内容として、静謐な環境の下で信仰生活を送る利益が保障される。」という部分は、誤っている。